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2003年11月14日(金)
「当たり前の幸福」と「届かない幸福」

「ポケットに名言を」(寺山修司著・角川文庫)より。

【幸福について

 「幸福とは、幸福をさがすことである」〜ルナアル】

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まずは以下の参考リンクをお読みください。

参考リンク:「うだうだ帳」(11/14「人それぞれ」、11/13「捨てる服ない/井深大が女だったら」)

 31歳(もうすぐ32)にして、独身もちろん子供ナシの僕としては、読みながら、いろいろと考えさせられる内容でした。
 人間という存在は、昔から「幸福」を定義づけようとしてきたのです。
 その「昔から続けてきた」ということは、裏を返せば、「『これだ!』という定義づけは、現在まで行われていない」ということなのでしょう。

 子供の頃、「幸福な家庭をつくる」なんてものには、あんまり魅力は感じませんでした。そんなせせこましいものは、「どこにでも転がっているもの」であり、もっと世界の役に立つような「大きなこと、人類のためになること」をすることが、人間にとっての幸福だと考えていたのです。
 たとえばそれは、家にほとんど帰らずに研究に没頭したり、医者であればずっと病院に泊まりこみ、象徴的なものであれば、「マザー・テレサのような人生」という感じ。
 そうやって、世間的に評価されたり、後世に名を遺すのが「幸せ」であり、「恋愛」や「家庭」の小さな幸せなんて、小市民の喜びだ、なんて。
 今から考えたら、気負っているだけで、それを実現するための具体的な何かが、根本的に欠けていたわけですが。

 僕にとっての「幸福」とはなんだろう?と考えると、正直なところ、この年になっても、よくわからないのです。
 たとえば、仕事がうまくいって褒められたり、面白い映画を観たり、あるいは、明日早起きしなくてよくて、好きなだけ眠れる夜だったり。
 小さな「幸せな状況」の具体例はたくさん思い浮かぶのだけれど、「人間としてこうなれたら幸せ」なんていう理想像は、年を重ねるごとにどんどん不明瞭になってきています。
 たとえば、100人の人を少しずつ幸せにできる人間と、1人の人をものすごく幸せにできる人間とでは、(便宜的に、「幸福指数」というのを過程すれば、100人の人間に1の幸せを与えられる人間と、1人の人間に100の幸せを与えられる人間、ということです)、どちらに価値があるのでしょうか?
 僕が子供の頃であれば、その答えは間違いなく「100人の人に1ずつ幸せを与えられる人」だったと思います。でも、今は、どちらが正しいかなんて答えを出すことができないのです。
 ほんとうは、目の前のたったひとりを幸せにすることだって、とても難しいことだということがわかってきたから。
 実際、1人の人間が、みんな目の前の1人の人間をきちんと幸せにできれば、たぶんこの世界は「幸福」に不足することはないのでしょう。
 現実は、そんなにうまくいかないんでしょうけど。

 僕は、井深さんの言葉に「幸福を実感する」というのは、難しいことだなあ、と感じたのです。
 井深さんも、自分のやってきたさまざまな仕事に誇りを持ちつつも、結局、それが「ひとりの子供を産み育てる」という行為より優れたことである、という確信が持てなかったのではないでしょうか?
 まあ、「どっちが幸福か?」なんて比べようがないことですし、本当に、子育てにおいて、「努力が必ず報われる」というものかは、なんとも言えませんが。

 ただ、こうして「幸福って何だろう?」とか考えていられるのは、きっと、ものすごく幸せなことなんですよね。
 今のところ、明日のゴハンには困っていないし、頭の上からいつミサイルが降ってくるかわからない、という状態でもないし。

 それでも、「幸せだなあ」と呟く僕の心の奥に、「こんなので、ほんとに『幸せ』なの?」と問いかけてくるもう1人の自分がいるのも、確かなことなんですよね。