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2003年11月13日(木) ■ |
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「任天堂帝国」の栄光と落日 |
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共同通信の記事より。
【任天堂が13日発表した今年9月中間連結決算の純損益は28億円の赤字となり、前年同期の189億円の黒字から赤字転落した。赤字は通期を含めて1962年1月の上場以来初めて。 売上高は1・6%増の2113億円。円高による為替差損に加え、ソニー・コンピュータエンタテインメント(東京)の家庭用ゲーム機「プレイステーション2」に押されて家庭用ゲーム機「ゲームキューブ」の出荷台数の低迷が響いた。また、対応ゲームソフトの販売も不振だった。 来年3月期は売上高5500億円、純利益600億円を予想する。】
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僕にとって、「任天堂」というのは、まさにジャパニーズ・ドリームの象徴でした。ファミコンが出るまでは、花札やトランプを作っていたこの会社の名前を意識したことがある人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか? ファミコン以前にも、「ドンキーコング」などのゲームセンター用のゲームは創っていましたが、それはあくまでもゲーム好きの間での知名度でしたから。
それが、家庭用ゲーム機での「ファミリーコンピューター」の爆発的ヒットで、任天堂は、日本が誇る大企業に躍進したのです。 一時は、社員一人あたりの経常利益が日本一と言われ(当時は、まだまだ社員の数が少なかったみたいですから)、僕が読んだ本には、「任天堂のボーナスは、なんと給料30か月分!」という記事がありました。 課長クラスでも、ボーナス1000万とかいう世界だったようです。 30か月分って、給料2年半分ですよ、1回のボーナスが! ファミコンが売れまくっていたころの任天堂は、そのくらい儲かっていたのです。 いくらバブルの時代だったとはいえ、今から考えると夢のような話。
その後、任天堂は、当時日本よりもゲーム大国であった(と僕たちは思い込んでいた)アメリカに進出し、そこでも大成功を収めます。最初にアメリカ進出の話を聞いたときは、「そんなにうまくいくのかなあ?」と半信半疑(というより、4分の1信4分の3疑くらい)だったのに。 野茂よりもはるかに早く、この京都生まれの日本企業は、アメリカでも奇跡的なな成功をおさめ、「マリオ」は、世界の共通語となったのです。
当時は、「任天堂帝国」に終わりの日がくるなんて、ほとんど想像できませんでした。 シェアが圧倒的に高く、多くのメーカーからゲームが発売されている任天堂のゲーム機は、もしかしたら未来永劫家庭用ゲームの世界の王様でありつづけるのではないか、と。
しかし、歴史は流転します。カートリッジの容量の少なさ(ちなみに、任天堂は「CD−ROMの読み込み時間とコピーソフト対策として、カートリッジに固執していたようです)と任天堂が搾取するマージンの高さに失望したゲームメーカーたちは、続々とソニーの「プレイステーション」陣営に乗り換え、任天堂帝国は斜陽を迎えます。 それは、あっけないくらい急激な変化でした。 とくに「ニンテンドー64」の時代は、ハード性能でライバルたちに置き去りにされ、しかもカートリッジによるゲーム供給であったため、コストが高く、新規参入しづらいという状況であったため、任天堂にとって厳しい時代となりました。 結果的には、「ポケットモンスター」(略称「ポケモン」)とゲームボーイの予想以上(あるいは予想外)の大ヒットにより、任天堂は運良く息を吹き返すことができたのですが。
その後の任天堂は、プレステ陣営に押されて、かなり厳しい状況が続いているようです。「赤字は通期を含めて1962年1月の上場以来初めて」という、40年間も黒字を積み重ねてきた軌跡は、逆にものすごいことだと思うのですが。
たぶん、今の任天堂のボーナスは、普通の企業と同じくらいでしょう。 でも、あの頃感じた「任天堂」という会社への衝撃は、今もなんとなく僕の中に残っているのです。 まだ、ゲームを遊ぶ人にも創る人にも夢があった時代の話。
それにしても、この任天堂の歴史を考えるとき、どんなに繁栄しているものでも、この世の中に「永遠」なんてないんだなあ、と僕は考えてしまうのです。 それは、プレステだってもちろんそうでしょうし、日本やアメリカという国の未来にも当てはまるのではないか、と。
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