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2003年06月07日(土) ■ |
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「敵がいなければ、本当の味方もいない」 |
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「消えたマンガ家・ダウナー系の巻」(大泉実成著・新潮社)より抜粋。
(「マカロニほうれん荘」で一世を風靡したマンガ家、鴨川つばめさんのインタビューより)
【鴨川「ちょっと、青臭いですけどもね。これからマンガを描く人に、一言僕から言いたいことがあるとすれば、「敵がいなければ、本当の味方もいない」ということは、言葉として贈りたいですね。 大泉「なるほど。」 鴨川「だから許せないものについてのこだわりというのは、持ち続けてほしいと思うんです。自分自身の原動力というのは、それだったんですけれども。青臭いですね。」】
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「敵がいなければ、本当の味方もいない」深い言葉だなあ、と。 普通は誰でも、他人に嫌われたり、敵をつくるのは嫌ですよね。 いつでも公平な態度で、差別をしない、誰からも愛される立派な人間。 そういう存在を目指したことが無い人は、いないんじゃないでしょうか。 僕も、そういう人間をずっと目指してきたような気がします。 ずっとこうやって文章を書いていて思うのは、「100%誰からも納得されるような文章は存在しないし、万が一そういう文章があったとしたら、それはひどく当たり障りのないもので、面白くもなんともないだろう」ということです。 例えば、戦争反対!と書いたとしても、「戦争だって、場合によっては悪ではない」と主張する人がいます。 不倫は悪いことだ!と書いても、「好きなんだから、しょうがないじゃないか!」という人たちが必ずいるわけですよね。 まあ、主張の内容だけでなくても、表現形式にしても「文章は映像には勝てない」という人もいれば、「俳句なんて誰でも創れるよ」という人もいるし。 つまり、何かを表現しようと思えば、「敵も味方もつくらない」ということは、まず不可能だということなのです。 敵をつくるまいとすれば、黙って言いなりになっておくしかない。 「誰にでも愛される文章」というのは、ひとつの理想です。 でも、山田詠美、村上春樹、宮部みゆきetc…、当代の人気作家を挙げてみても、彼らのアンチがいかに多いことか! 芸術の世界ではとくに、1億人のうち5000万人が「まあ、いいんじゃない」というような作品よりも、100万人が「すごく好き!」で、9900万人が「大キライ!」という作品のほうが評価されることがあります。 それは、「商売になるから」でもあるんですが。 実際、こういうテキスト類でも、人気上位なものの中には、大部分の人が目をそむけたくなるようなものもあるわけですし。 毒にも薬にもならないようなものは、評価のしようがない。 ところで、これって実生活においても言えることで、「差別をしない、公平な上司」というのが理想だと思いつつも、実際に職場で頼られるのは「愚直なくらい、さまざまな困難から仲間や部下を守ってくれる人間」だったりするんですよね。 残念ながら、普通の人間にとっては「公平な人間」よりも「自分を贔屓してくれる人」のほうが大事な存在です。 もし、この世界が誰とも競争せずに生きていける楽園だったら、きっと、「敵も味方もいない」人生を送ることだって可能でしょうが。 しかし、実際のところは何かをやろうとすれば、必ず誰かと関わらざるをえない。 そして、自分の味方になってくれる人のところに、人は集まってきます。 そういう意味では、「敵のいない人生」というのは、寂しい人生なのかもしれませんね。
だからといって、わざわざ言いがかりをつけて必要以上に何かや誰かを罵倒するような人や文章には、僕は強い嫌悪感を覚えてしまうのです。 そういう人は好き嫌いが激しい場合が多いですから、「この人が敵になったら怖いな」とか想像すると、あんまり仲良くならないほうが得策かな、とも。
要するに、僕はあまり表現者や組織人に向いていない、ということなんでしょうね。
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