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2003年06月01日(日) ■ |
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少女マンガの黎明期を支えた人々。 |
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「週刊アスキー・2003・6.10号」の記事「進藤晶子の『え、それって、どういうこと?』」での漫画家・声楽家、池田理代子さんのインタビューより。
(少女マンガ雑誌の黎明期について)
【進藤「現在は(少女マンガ雑誌の大部分が)週刊でなく月刊誌が主体になり、締め切りの間隔も広がっていますものね。
池田「私も今のマンガを読んでいないのでなんとも言えないんですが、週刊から隔週にしたときの理由が、中身が薄いものになっていくからだと言われて。あの当時(池田さんんの代表作「ベルサイユのばら」連載当時、1970年代前半)って、マンガ自体サブカルチャーで、その中でも少女マンガは文化として最底辺と言われていたんです。そんな中、出版社に入ってくる男性はエリートなんですよ。でもみんな文学を志してくるのに、少女マンガに回されたという、鬱屈したものがあって。 それなら文学に負けないものを作ってやろうという、編集者の意気込みみたいなものがあったんだと思います。それと、描くほうもバカにされてたまるかという人たちが大勢いましたし。 あの時代に、萩尾望都や竹宮恵子、山岸涼子、私と同期には里中満智子とか木原敏江。 本当に、キラ星のごとく大勢いましたからね。】
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池田理代子さんは、マンガ家として「ベルサイユのばら」(1972年から「週刊マーガレット」で、約2年間連載)などの作品で一世を風靡し、現在は声楽家として活躍されています。 僕自身は「ベルばら」って、高校時代rに、男子校の寮で回ってきたのを読んだのがはじめてだったのですが、「女の子の読むもの」というイメージが間違っていたことを思い知らされた記憶があります。 歴史ものとしても、十分に楽しめる作品。
子供の頃は、少女マンガ雑誌は、文字通り「女の子が読むもので、目に星が書いてある人物がラブラブしている(しかも、出てくる登場人物(とくに男)は、みんなカッコいい)唾棄すべき甘ったるい読み物、という印象しかありませんでした。 それこそ、オレの近くに少女マンガを置くな!というような感じで。
その頃(今から20年くらい前)は、男の読むマンガと女の読むマンガは、けっこう明確に区切られていて、「りぼん」を読む男の子とか、「週刊少年ジャンプ」を読む女の子なんてのは、かなり異分子というイメージがあったのです。 今でも前者は、とくに子供の場合は「えっ?」って感じなのですが、「女の子のジャンプ」については、もうごく当たり前になってきていると思われます。 「週刊少年ジャンプ」とか「マガジン」には、女の子向けっぽいマンガもけっこうあるくらいですから。
でも、昔の少女マンガにしても、僕が大学に入ってから読んだ印象では(けっこうマンガを貸してくれる女の子がいたのです)、確かに読みなれた「努力!友情!勝利!」のジャンプのマンガよりも「ぼくの地球を守って」とか「綿の国星」とか、「ポーの一族」なんてマンガのほうが、「文学的」であり「哲学的」だったんですよね。 正直、世間の女の子は、僕たちが「キン肉マン」を読んでいる間に、こんなに難しいものを読んでいたのか…とビックリ。
確かに、現代の週刊マンガ全盛の時代において、少女マンガ誌というのは、あんまり週刊のものってないような気がします。 しかも、やたらと分厚い本が多いような印象も。
最近は、「少女マンガ」というより「レディースコミック」というのが全盛で、かなり露骨な描写なんかが話題になっているようですが、たぶん、そんな中にも、「サブカルチャーの鬱屈」を抱えた傑作が潜んでいるんでしょうね、きっと。 僕はレディコミはちょっと…という感じなのですが。 どんな芸術や文化の世界でも、マイナーであるが故に、メジャーへの反骨心から発揮されるエネルギー、というのがあるのかもしれません。
僕の知人のマンガマニアが、こんなことを言っていました。 「本当に新しくて面白いマンガって、メジャー誌には載らないものなんだよね」って。
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