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2003年05月25日(日)
「歴史を創ること」に取り憑かれた男の悲劇。


共同通信の記事より。

【旧石器発掘ねつ造問題で検証していた日本考古学協会の調査研究特別委員会(委員長・小林達雄国学院大教授)は24日、東京都内で開いた協会の総会で、東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長(53)がかかわった9都道県の計162遺跡でねつ造があり、前・中期旧石器時代(3万年以上前)の全遺跡を無効とする検証結果を発表した。
 2000年11月の問題発覚から2年半、考古学界を揺るがし教科書書き換えにまで発展したねつ造問題はこの最終報告で学術的に決着した。
 報告によると、藤村氏が関与した遺跡は最大186カ所あり、このうち178カ所で検証が終わった。159カ所は遺跡そのものがねつ造で、学術的価値を否定。3カ所は何らかのねつ造があった。残りは明白なねつ造は確認されなかった。】

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 とんでもない人がいたもんだなあ、と思うと同時に、学会というものの検証機能そのものにも疑問を投げかける事件でした。
 それにしても、この捏造をやった人は、「どんな場所に行っても、この人が掘ると遺跡が出る」と言われていたそうで、いくらなんでもそんなことはないだろう、と誰も思わなかったのでしょうか。
 
 しかし、この事件で僕は、もうひとつ感慨深かったことがあるのです。
 それは、僕たちが「歴史的事実」だと信じていることって、本当は、ものすごく細い糸の上に乗っかっているんじゃないか、ということ。
 おおまかな歴史の流れそのものは、そんなに外れてはいないのかもしれないけれど、古代史は現代史のようには、いろいろな角度から検証することは難しいと思います。
 要するに、誰かの書いた落書きみたいなものが「信頼するべき歴史的資料」として伝えられているのではないか、という可能性もあるわけで。もっとも、「落書き」ができる身分の人そのものが、古代には少なかったのかもしれませんが。
 あるいは、フィクションが広まっていくうちに、いかにも歴史の事実のように信じられていることだって、ありえるわけで。
 
 結局、歴史というのは100%正確な事実ではありえないのでしょうね。
 人それぞれの過去の記憶が、時間とともに自然に変化してしまうのと同じで。
 
 しかし、この藤村氏、ある意味、織田信長や坂本竜馬と同じくらい「歴史を変えた男」なわけですよね。
 前漢の歴史家司馬遷は、宮刑という男根を切り取られる屈辱を受けてまで「史記」の編纂に生涯を捧げたわけですが、「記録する」ということも、ある意味、歴史を創るということなのかもしれません。現代の報道と同じで、史家の伝え方によって、歴史的な評価が変わってしまうことはありえるわけですから。
 捏造なんてやめてもらいたいけれど、それが魅力的な行為だというのは、なんとなくわかるんだよなあ。
 もちろん、それをやらないのが、真のプライドなんでしょうけど。