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2003年05月24日(土)
「純粋なるもの」を知るということ。


「美味しんぼ〜歴史が創る味!伝統の和菓子編」(小学館)のコラム『美味しんぼ塾・第六十講・和菓子』(雁屋哲・著)より。

【「嘯月(しょうげつ・和菓子の名店)」の餡作りを見学してつくづく思い知ったことがある。純粋な味がどんな物か知らなかったら作りようがない。純粋な味を知っているから不純な物をどんどん削り落として行く。これが和菓子、ひいては日本の文化の真髄だと悟った。】

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 僕の知り合いに、けっこう水の味にうるさい人がいます。
 一緒に食事に行くと、「この店の水はおいしくない」と呟いたりされるのは、あまり気分のいいものではないのですが。
 しかし、水の味がこんなに話題になってきたのは、世間に「おいしい水」というのがあると理解している人がいるからなんですよね。
 生まれつき同じ水を飲み続けていれば、美味しいとか不味いとかは、あまり考えないはずで。まあ、その時々のコンディションによって、美味しく感じたり、不味く感じたりすることはあるかもしれないけれど。

 こういうのは、食べ物のことに限らず、音楽をやる人や文章を書く人にとっても、とても大事なことなのではないかなあ、と思うのです。
 もちろん、自分の感性で凄い作品を作り上げられるひともいるのかもしれませんが、やっぱり、「基準となるもの」としての名盤や名作を知るというのは、多くの人にとって必要不可欠なこと。
 「純粋な味」というのを知っているからこそ、それに近づけたり、それをアレンジしたりすることが可能であるわけで。

 でも、僕は、こんなことも思うのです。
 この世に「完全に純粋なるもの」なんて存在するものなのだろうか?と
 食べ物にしても芸術にしても、「純粋であるもの」という評価を受けているのは、あくまでも多くの人に好まれた、という結果でしかないのですから。
 絶対的に純粋なもの、なんていうのは、ありえないんじゃないかなあ。

 よく「純粋な人」というけれど、実際、僕は「純粋な人」に会った記憶というのはありません。
 世間的には、スレてない人、他人を信じやすい人、なんてのが「純粋」と言われているようなのですが(もちろん、そういう人はたくさん知ってますけど)、それがなぜ「純粋」なのか、いまひとつ、しっくりこないのです。
 「純粋になろう」とした時点で、それはすでに不純な感じ。

 結局、「純粋」の基準というのは、時代によって移り変わっていくものなのでしょうし、生まれた瞬間の赤ん坊以外に、「純粋なる人間」なんていないのかもしれません。
 
 まあ、「純粋なるもの」には生きにくい世の中ですしね。