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2003年03月29日(土)
「人間の盾」と「祈りの言葉」


共同通信の記事より。

 【大国の横暴を止めたかった−。米英軍の対イラク攻撃を防ぐため「人間の盾」としてイラクの首都バグダッドに滞在していた日本人男性2人が27日、シリアのダマスカスに到着した。2人は「盾として民間施設を守った」達成感と同時に、「攻撃を阻止できなかった」悔しさを抱えている様子だった。
 筑紫光雄さん(63)、松崎三千蔵さん(59)は首都近郊の浄水場で「盾」となった。
 開戦直後の20、21日は空爆が激しく、2人がいた浄水場でも「爆発で建物全体が揺れるような衝撃を受けた」と筑紫さん。
 松崎さんは「爆弾が目標の一つ一つを精密に破壊し、火柱が高く上がる。近代兵器の恐ろしさを肌で感じた」と述べ、「人間の盾には異論もあるようだが、戦争と危険を戦地の人々と共有することができた」と話した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 お二方、「戦争体験ツアー」お疲れ様でした。
 さぞかし怖い目に遭われたことと拝察いたします。
 彼らの「大国の横暴を止めたかった」という気持ちはよくわかります。
 そういった思いを抱いていた人は多いはずだから。
 そして、それを「人間の盾」という形で行動に示したことも、僕にはできないことだと敬服します。実際、何人かじゃなくて何万人もの「人間の盾」がバクダッドにいたら、本当にアメリカ軍はイラクを攻撃できないかもしれないし。

 でも、人間の盾、とくにこの帰ってきた2人に対する印象は、正直なところ、「情けない人たちだなあ…」というものです。

「盾として民間施設を守った達成感」って、アメリカの本格的な攻撃はこれからなのに…
「盾」というのは、所有者を敵の武器から身をもって守って砕け散るからこそ「盾」なのです。
「あっ、敵の剣が迫ってきたから、オレ帰るわ、じゃっ!」とか言って、消えてなくなってしまう盾なんて、誰も装備しませんよね。
というか、それじゃ根本的に「盾」じゃないだろう?と。

もちろん、僕が彼らに「現地に残って死ね!」とかいう権利は全くないのですが、前にも書いたように、「人間の盾」がいちばん世界に戦争の無残さをアピールする方法というのは、現地に残って民間人を守って死ぬ、という行為なのです。
「戦争と危険を現地の人々と共有することができた」って、現地の人々は、危なくなったら大使館に助けを求めて逃げられるような人々と、何かを共有しているという気持ちは全く持てないと思います。
 「危なくなったら、逃げるのかよ…何しに来たんだ?」と普通は感じますよね。

 彼らに僕が期待しているのは、「自分たちが役に立った」という言葉よりも、「イラクで『盾』として死ぬつもりだったんだけど、現地にいるとどうしても怖くて命が惜しくなったんだ。本物の戦争は、僕たちの決意を打ち砕くほど怖かった」という言葉なのですが。

 「怖い」というのは、恥ずかしいことじゃない。
 それこそが、「自分たちは役に立った」という意味不明のコメントよりも、現実に人々に伝わる戦場体験者の実感なんじゃないのかなあ。

 そうそう、今ネット上で、「千人祈」というイラク戦争に対する言葉をそれぞれの人が書き込んでいくという活動(既にもう、1000名を超える書き込みがあったようです)が行われています。
何もできなくても、せめて、言葉を。



 でも、僕はここの書き込みを読んでいると、言葉の「力」と「無力さ」を同時に感じてしまうのです。何故なんだろう…