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2003年03月20日(木) ■ |
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それは「美に関心が薄くなった」わけじゃない! |
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「もしかして愛だった」(阿川佐和子著・大和書房)より抜粋。
【拡大鏡を愛用するようになってわかったことがある。かねてより疑問に思っていたのだ。どうしておばあさんになると、ヒゲが生えてくるのだろう。どうしておしろいをムラに塗ったまま平気な顔をしていられるのだろう。 理由は、美に関心が薄くなったせいではない。見えないのである。本人は抜かりなくお化粧をしたつもりでも、細部までは見えていないせいではなかろうか。】
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この文章を読んで、僕はいろんなことを思い出しました。 それはもちろん、化粧のことに限らず。 ものごとの本当の理由というのは、実は当人にしかわからない場合も(ときによっては、本人にすらわかっていない場合も)往々にしてあるのだなあ、と。 たとえば、道路を猛スピードで突っ切っていく車がいたとしたら、僕は「あんなに飛ばしやがって、迷惑な奴!」と感じます。でも、実際はその車のドライバーだって、自分の親が危篤で一刻も早く病院にいこうとしているのかもしれません。 駅で切符がなかなか買えない人も、病気で体が不自由なのかもしれない。 果たして、おばあさんに「ヒゲはえてますよ」と指摘することが正しいかどうかはなんとも言えないけれど、「年で美にこだわりが無くなったから、化粧もいいかげんになった」というのは、あくまでも今の自分の視点からの解釈。 実際は、本人にとって「結果としてそうなってしまっている」だけのことでも。
僕たちは、いろんな物事に対して、公平な視点で観ているつもりでも、実際は、自分の常識とか経験の枠にとらわれてしまっていることが多いような気がします。 本当に大事なのは「どうしてそうなったのか?」そして、「どうすればいいのか?」ということを相手の立場になって考えてみることなのかもしれないのに。
ましてや、宗教が異なり、考え方や常識も違うことがわかりきっている国と国の間なら、そんなことは当たり前のはず。 わかっているつもりでも、なかなか自分の常識の枠組みを離れられないのが、人間の業というものなのでしょうか…
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