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2002年11月15日(金)
日本と韓国と北朝鮮と悲劇の金メダリスト。


西日本新聞の記事より

【日本の植民地時代の一九三六年のベルリン五輪で「日本代表選手」としてマラソン競技に出場して優勝した孫基禎(ソン・ギジョン)氏(90)が十五日未明、呼吸不全のためソウル市内の病院で死去した。肺炎などで入院していた。

 現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の新義州生まれ。同五輪では2時間29分19秒の五輪最高を出した。自伝「ああ月桂冠に涙」の中では「私を待ち受けていたのは意外にも、果てしない挫折感だった」と記すなど、日韓の不幸な歴史が生んだ悲劇の英雄だった。

 この快挙を報道した東亜日報は、孫選手の胸の日の丸を黒く塗りつぶした写真を掲載し、朝鮮総督府から十カ月間の発行停止処分を受けた。

<日韓の陸上界に貢献>

 君原健二氏(1968年メキシコ五輪男子マラソン銀メダリスト)の話 日韓両国の陸上界に貢献された。84年のロサンゼルス五輪のときに、現地で男子マラソンを一緒に見た。瀬古選手がレース途中で遅れ、残念がっていらっしゃったのをよく覚えている。日本の選手にも声援を送られていたのはうれしかった。(共同)

ダブルの国籍で走る

 早大競走部OBで映画監督の篠田正浩氏の話 ベルリン五輪は小学生のときに(映画で)見た。彼が日の丸のワッペンをつけて走って、メーンポールに初めて日の丸が上がった。彼はダブルの国籍を持って走ったと思う。(日本の代表であると同時に)マインドは朝鮮を代表して走った。日本と朝鮮の現代的なシンボルを担い続けてきたと思う。(共同)】

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 もうひとつ、「言葉のレッスン」(柳美里著・角川文庫)より。

(柳さんの祖父は、孫さんとタイムを競ったこともある長距離の選手)

【ディレクターは、この番組は(韓国)国内で放送するのだから韓国語でしゃべるようにと指示を出し、私も国民的英雄の孫さんに日本語を使わせるわけにはいかないので、「通訳の人もいますかしだいじょうぶです」といったのだが、彼は「あんたは日本語しか話せない。梁(柳さんの祖父)の孫と通訳をあいだにして話すわけにはいかない」と頑として受けつけなかった。
 ほんとうは公式の場で日本語をしゃべるのは極めて不謹慎なことである。私は二十年前に死んだ祖父の話を聴くように孫氏の話に耳を傾けた。】

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 90歳という年齢は、人生が終わる時期として、けっして早いとはいえないでしょう。
 僕は後に引用した柳さんの文章を先日読んでいたものですから、孫さんの訃報、いろいろと考えることがありました。
 先に引用した新聞記事では、「孫さんは、日本と朝鮮の両方を代表して走った」というような、いわゆるキレイゴトで語られているのですが、実際は、敵の国の代表として走らなければならない苦悩にひどくさいなまれていたようです。
 「ダブルの国籍を持って走った」のではなく、彼自身の心のなかでは「どちらの国籍も持てなかった」のではないかなあ。
 
 孫さんのことを「国と国との争いに巻き込まれた悲劇のランナー」としてだけ語るのは、簡単なこと。でも、柳さんは日本という国や日本語に嫌悪感を示しながらも、友人のマゴにあたる柳さんには、直接話をするために日本語で語りかけています。

 孫さんは、結局は走ることが好きな人、ただそれだけだったのかもしれない、僕はそう思います。自分の走る意義を失わせた日本のことがキライでも、ランナーのことは、たぶん国籍に関係なく世界中どこの国でも、心から応援していたのではないでしょうか。
 だいたい、ほんとに心から「こんな状況なら、走りたくない!」と思いながら走っても、金メダルが獲れるとは思えませんし。
 
 国を代表して戦うということは、いったいどういうことなんでしょうか?
 オリンピックが盛り上がるのは、こういう国と国との代理戦争的な面が深くかかわっているのでしょう。
 その盛り上がりから生み出される利益によって生計を立てている選手も、たくさんいるのもまた現代では常識というもの。

 どこの国の代表であっても、彼がベルリンオリンピックの男子マラソンの金メダリストであるという事実は変わりません。でも、「単に走ることが好きな金メダリスト」が「悲劇の金メダリスト」になってしまった。
 
 もし天国に国籍が関係なければ、彼は自分の偉業を心から自慢できているのかなあ。

 それにしても、「公式の場で日本語をしゃべるのは極めて不謹慎なこと」という記載に、あらためて思ったこと。
 僕たちは、「北」の非道にばかり目を向けているけれど、「南」とだって、完全に理解しあえているわけじゃない。
 それは、日本にばかり原因があることではないとしても、きちんと認識しておかなくてはいけない、悲しい現実。