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2002年06月08日(土) ■ |
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2002年6月8日。 |
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「阿川佐和子のこの人に会いたい」(文春文庫)より抜粋。 (1996年10月の藤子不二雄(A)(安孫子素雄)さんとの対談から。)
【藤子(A)「いや、漫画家も歳をとってくると、普通は、『ドラえもん』のような、本当に純粋な子供漫画は描けなくなるものなんですよ。ところが、藤本君(藤子不二雄(F))というのは、子供の頃からずっと無菌室にいたような、ナイーブな人だったんです。だから、あんな楽しい『ドラえもん』を描くことができたんだと思います。
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(東京に出てきた当初のことを回想して) 藤子(A)「藤本君は、非常に人見知りが激しくてね。昭和29年に、東京に出てきてトキワ荘に住んだ頃は、編集者が来る頃になると、「ちょっと散歩してくる」って出ていっちゃう。自然と僕が応対して、編集者が藤子不二雄は僕だけのことだと思ってた時期もありました」】
〜〜〜〜〜〜〜 藤子不二雄は安孫子素雄さんと藤本弘さんの2人のペンネーム。2人は分業制ではなく、それぞれ自分の作品を書いて、共通のペンネームで発表されていたそうです。 『ドラえもん』は、実際には藤本さん(藤子不二雄(F)さんのほう)が書かれていたのですが、この藤子(A)さんのお話からすると、藤子(F)さんは、かなり純粋で芸術家肌、気難しいところもあったようです。藤子(A)さんのほうはむしろ気さくでおおらかなところもあり、漫画以外の趣味も多彩な人(そこから、「プロゴルファー猿」なんかは生まれてきたようです)。 2人が別々の漫画を書いているのに、どうして共通のペンネームを使いつづけてきたのか?僕はちょっと疑問に思っていましたし、そう思う人は多いんじゃないでしょうか? でも、このインタビューを読んで、ちょっとその理由がわかったような気がします。真面目で勤勉で純粋だけど人付き合いが苦手な藤子(F)さんが、そのナイーブさを持ちつづけて「純粋な子供漫画」を書きつづけられたのは俗世間のことをフォローしてくれる藤子(A)さんあればこそであり、逆に、ともすれば楽な方向に走りがちな俗人としての一面を持つ藤子(A)さんが漫画に対するモチベーションを保ちつづけられたのも、身近なところに藤子(F)さんという存在があったからではないかと。 漫画が大好きという縁で知り合った2人の青年。性格はおおいに違ったけれど、2人はとってもいいコンビだったんでしょうね。漫画という子供を産み育てるための最良の夫婦。
仮に、実際に描いたのが藤子(F)さんひとりの作品だったとしても、彼ひとりで漫画家として、ずっと描きつづけてこられたかどうか。 やっぱり、『ドラえもん』は、「藤子不二雄」の作品だと、僕は思います。 もちろん、他の藤子作品すべても「藤子不二雄」のものではないかと。
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