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2002年04月17日(水) ■ |
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2002年4月17日。 |
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中島らも・わかぎえふ共著「リリパット・アーミー〜しこみ篇」(角川文庫)より抜粋。
【よく「弟子にしてください」とか小説の書き方を教えてください」といったお手紙をいただく。こうした手紙は、悪いけれどその時点でボツになる。なぜなら、こうした人たちはどこかぼんやりとした幻想を抱いていて、「どちらかというと小説家になりたいなあ」「エッセイストになれたらいいなあ」くらいのことしか考えていないからである。 ほんとうにできる人は、四の五の言わずに、すでに書いたものをどかっと持ってくる。「これのどこが悪いのか教えてください」 こうなると、僕も重い腰を上げざるを得ないだろう。おそれ多いことだが、玉稿に朱筆を入れさせていただく。 ところが、今までにそういう人に会ったことは一度もない。15年間物を書く仕事をしていて、一度もだ。】
〜〜〜〜〜〜〜 たぶん、中島さんのところに原稿を送りつけてきた人、実際はいるんじゃないかなあと思うのですが。まあ、それはこの文章自体にも、エッセイとしての脚色の部分もあるとして。 要するに。「考えるのではない、感じるのだ」ということなのでしょうか。 ガイドブックとか、ハウツー本に頼る程度の情熱では、実際に作家としてはやっていけないよ、と。書かないといけない、というような一種の脅迫観念じみたものが必要なのかもしれません。 まあ、この文を読んで、そうかあ、と思うレベルでは、ダメなんだろうなあ、きっと。 書きさえすればいいというものではないだろうけど、まず、書かないことにははじまらない。これは、作家に限ったことではないですよね。そういえば、原田宗典さんも同様なことを書かれていた記憶があります。
現実にはエッセイなどとくに「何が書いてあるのか」よりも、「誰が書いたのか」のほうが重視される時代のようですが。
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