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遠子(桜井都)

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 節分松葉寮。

 生死与奪の権利はどこにあるか。










 二月三日、朝から渋沢克朗は一冊のファイルを前に悩んでいた。
 部活引退後の朝は遅い。午後の練習には高等部のものに参加することになっているが、朝練習は引退してから卒業までは消滅するのが慣例だ。そのために以前ならばとうにグラウンドに行っているはずの時間も寮内で過ごしていられる。

「…どうするかな」

 人気のない階段に腰掛け、すでに幾度も読み返したファイルを開く。
 ア行からの名前が紙面の上から順に連なるそれは、総勢五十名を優に超える武蔵森学園中等部男子サッカー部の今年度の名簿だ。三年の浅井から始まり、一年の渡辺で終わる。
 この日、前年度部長の彼には一つの役目があった。それを補助するのがこのファイルだ。

「……どうしよう」

 同じことを先ほどから独りで繰り返し、ファイルを閉じてはまた開く。
 渋沢がうつむくと、淡い茶をした前髪が視界の隅に引っかかる。その合間で眉間に皺が寄るのが自分でもわかっていたが、やめられそうになかった。

「浅井、安部、安西、伊藤…」

 名簿の上から読み上げてみるが、思い浮かぶ顔がどうしても決定打にならない。

「参った」

 お手上げだ。
 そう思いながら、とうとう渋沢は膝の上のファイルに額を押しつけた。

「おーい渋沢ー」

 二階から三階へ繋がる場所にいた渋沢のほうに、階下からの足音が聞こえてきた。
 渋々顔を上げると、声からの予測通り同学年の中西が踊り場から顔を出した。

「決まったか?」
「いや…」
「三上が食堂ですげーイライラしてんぞ。早く決めろよ」
「じゃあお前でいいか?」
「嫌だ」

 即座に断られ、渋沢はファイルの上に頬杖を突きながら中西を軽く睨む。

「なあ、ジャンケンじゃダメなのか?」
「んなこと言ってもなぁ。代々部長が決めるのが慣わしってヤツだろ。ここでジャンケンで決めると、後で高等部に知られたらマズくね?」

 運動部の縦関係は厳しい上に古典的だ。大所帯になればなるほど秩序を重んじ伝統を尊ぶ。去年やったことは今年もその通りやれ、というのが暗黙のルールだ。
 わかってはいるが、と渋沢は毎度の肩書きを少し恨んだ。

「…節分の鬼なんて、やりたがる奴は滅多にいないからなぁ…」

 本日の渋沢克朗の使命、それは節分における豆まきの鬼役を指名することだった。
 寮生活ではとかく節句ものがクローズアップされる傾向がある。例をいくつか挙げるなら、五月の節句には松葉寮の風呂は菖蒲湯になり夕食に柏餅がつき、土用の丑の日にはうなぎ、冬至にはゆず湯となる。寮生たちはそうやって季節を体感しているのだが、当然のように二月の節分も怠らない。
 本来節分とは立春の前日だけではなく、立夏、立秋、立冬の前日それぞれを指す語彙だったが、今では二月三日の立春の前日だけを節分と呼ぶようになっている。その日に災厄を払い、福を呼び込む儀式として豆を撒くわけだが、松葉寮では毎年鬼役を立てることになっていた。

「本当なら朝には言わなきゃならないんだからな」
「わかってる」

 珍しく期限を破った渋沢に、中西は同情するような笑みを浮かべた。

「お前もさ、そんな生真面目に考えなくてもいいからさ、パッパっと適当な奴に」
「三上か?」
「あー奴は半分予測してるぜ。今ごろ必死で心の準備してるだろ」

 ありゃ見物だ、と笑う中西を見て、渋沢は額に手を当てた。
 松葉寮の豆まきは豪快である。というより、豆を撒くというより鬼にぶち当てると言ったほうが正しい。階級学年関係なく、その一瞬だけは鬼役に向かって日頃の鬱憤が張らせる。
 あまりに盛大にまきすぎると後で掃除が大変だが、そんなことは後で考えればいいとあの一瞬誰もが思うことは渋沢も中西もよく知っていた。

「三上だと…あまりに奴が憐れだ」
「そりゃそうだ」

 ここぞとばかりにあの炒った大豆という武器を向けられるに違いない。
 そのあたりが鬼役の人選の難しさにある。あまり性格的に難のある人間にすると、現場は強烈なイジメの舞台に変貌する。三上は三上で司令塔として君臨してきた実績はあるが、一度彼に思いきり物を投げたいと思う人間は少なくない。
 いっそ自分がやれば楽だと渋沢は考えているが、それも慣例として部長職にある人間は鬼役になれないのだ。不思議な運動部の不文律がそこにある。
 そこそこに人望があり、強烈な豆当てを容赦される人格と、そこそこにその不条理を受け流してしまえる者、というと人数多きサッカー部といえども限りがある。

「藤代は?」
「あいつは去年やっただろう。二年連続は可哀想だ」

 今年こそ俺にも豆まくほうやらせて下さいね! と念を押しに来た藤代を思い出し、渋沢はまた名簿のファイルを開いた。こんなに人数がいるというのに、条件に合致する人間はなぜいないのだろう。
 ア行から延々と頭の中でマルバツをつけながら進んでいった渋沢の視線が、二年生の真ん中過ぎで止まった。

「……間宮、っていうのはどうだろう?」
「おお、いいんじゃね? っつーか俺でなきゃ誰でもいい」
「…だが、今年で間宮を使うと来年の部長が困るな」
「…………」

 役の過酷さを慮ると、連続でその役目に就かせることにでもなればあまりに非情すぎる。
 自分の意見にダメ出しをした元部長に中西が呆れたように口を変な形にした。

「おいおい渋沢ー、来年に気遣ってどうするんだよ」
「だがなぁ…」
「そんなこと言ってたら夕方までに決まんないだろー。じゃ間宮で決定! 俺ほかのに知らせてくるから!」
「待て。別のにする」

 渋沢は手を伸ばし、中西を止めた。腕を掴まれた中西が嫌そうな顔で振り返る。

「あのー、渋沢サン?」
「お前がいい。お前がやれ」
「ば、馬鹿言うなぁ!! ヤだねヤだよ俺は嫌だ!」
「お前なら他の奴らにも恨みは少ないし、適当に身長もあるから的にしやすい。ちょうどいいだろ」
「よかないし!」

 叫びながら頭を抱えた中西だったが、渋沢はむしろ解放された気持ちになっていた。悩みが解決された人間の雰囲気を漂わせ、彼は立ち上がる。手にしたファイルはもう要らない。

「お、おい渋沢頼むよマジで!」
「中西」

 これ以上俺を煩わせるな。
 そんな気持ちで、渋沢はにこやかに笑って彼の肩を叩いた。

「元部長命令だ」

 いい言葉だと珍しく特権を意識しながら、渋沢は食堂のほうへ歩き出した。

「…お前が一番鬼だーッ!!」

 今日の夕方の苦行を想定したのか、涙混じりの叫びを渋沢は背中で受け流す。
 何を今更、という感想が渋沢の本心だった。
 鬼役になった者は以後二度とやりたくないと言うのが常だ。そんな人選の決定権を持つ者が最も鬼に近いに決まっている。

「健闘を祈る」
「祈るなぁ!」

 喚いた中西の声はひたすら寮中に響き渡り、同時刻食堂にいた三上が心底から安堵しているだろうことを、渋沢は晴れ晴れとした気分で想像した。







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2005年02月06日(日)

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