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■ 雨の音(笛)(渋沢と三上)
雨が降ったら母さんが。
「…じゃのめって一体何だ?」
突然疑問の声が聞こえてきて、渋沢克朗は数学のノートから顔を上げた。 同室の三上亮が窓ガラスに額がつくほど顔を近づけて外を見ている。
「じゃのめ?」 「歌であるじゃん。あめあめ降れ降れ母さんが、って」
アレ。 そう続けた三上の、滅多に聞けない歌声に渋沢は軽く目を瞠った。 童謡の些細な旋律とはいえまさか歌うとは思わなかった。
「…じゃのめでお迎え嬉しいな?」 「おう」
こくりと三上の黒い後頭部がうなずいた。 三上は結露が見える窓ガラスに指を伸ばし、暇そうに落書きしていた。 その甲に比べてやや長い指が、曇ったガラスに「ジャノメ」と文字を綴る。
「じゃのめ…蛇の目、って書くんじゃなかったか?」 「ヘビ?」 「ああ。母さんから聞いたことがある」
渋沢は言いながら、記憶の奥底をたぐり寄せる。 小学生の頃今の三上と同じ疑問を抱いたことがある。 しとしとと静かに降る雨の音に渋沢は記憶を集中させた。
「…ああ、思い出した。傘の種類なんだそうだ」 「蛇の目してんのか?」 「柄とかじゃないか? 昔、女の人が使う傘って言ったら蛇の目傘だったらしい」 「ふーん」
相槌を打った三上の指先が、今度は「蛇の目」と漢字交じりでガラス窓に滑らされた。
「…雨が降ったら、母親が傘持って迎えに来てくれるってことか」
蛇の目でお迎え嬉しいな。 そう続けた歌声が聞こえたような気がして、渋沢は身を伸ばしてさっきからずっと三上が見ている窓の下を覗いてみた。 寮の庭先にある水色の紫陽花。まだ花の色づき方が浅いその庭木の前に、傘が二つ並んでいた。透明なビニール傘と、小さな赤い傘。 しっかりとその下で手を繋いでいる若い母親と黄色い長靴の女の子。 友人はそれを見て、あの歌を思い出したのだと渋沢は知る。 雨が降ってきたからと、母親がわざわざ迎えに出てきてくれる嬉しさ。小さな子にありがちな単純さだ。けれど自分たちはそれを待つほど、もう幼くはなく。 ゆっくりと渋沢は伸ばした身体を元の椅子の上に戻す。 雨の日の親子を見る三上の目が、懐かしさと微笑ましさを伴って彼女らに注がれている。 日頃はどうにもひねくれた言動を取る三上にも人並みにやさしい顔が出来るのだな、と渋沢は内心失礼なことを考えた。 きっと、彼にも家族が雨の日に迎えに来てくれた覚えがあるのだ。 そしてそれは彼にとって優しい家族の思い出で。 今よりずっと素直で、背も小さかっただろう友人の姿を想定して、渋沢は思わず笑った。
*************************** じゃのめって傘のことなんだって。 母と叔母に教えてもらいました。 蛇の目傘の情報はこちら。傘屋さんで見つけました。
2003年06月03日(火)
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