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オオカミ

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2004年03月21日(日)
悲しむ

自分は教科書が好きだ

高校時代に現代文の教科書などを新学期に配られると説明も
聞かないで、その時限目のうちに全て読んだりしていました


そんな高校時代の教科書が出てきて
読みふけっていたのですが

そんな中に共感できる文章があったので
ここに乗せようと思います



悲しむ                          五木 寛之



僕らは顔をあわせると
「きみ悲しいではないか」と昔の青年達のように
自分の心を素直に訴えようとしなくなってしまいました。
何故かといえば悲しそうな顔、憂鬱そうな顔、そんな表情をしていると
たちまち例の<暗い>と言う批判の対象にされてしまうからです。
いま、<暗い>と言う表現は、単なる明暗の状態を表す言葉ではありません。
それは明らかに勝ちの優劣を表す言葉として使われています。
暗さより明るさを、涙より笑いを、悲しみより饒舌を、そして愚にもつかないギャグや
ユーモアともいえない冗談などが、テレビや雑誌や様々なところに氾濫しています。
みんなが<暗い>と言われることを恐れている。
そして明るく軽快で楽しげであることを求めている。
これはひとつの病気ではないかと、僕には思えるのです。

中略

「悲しいではないか」
と顔をあわせるやいなや、思わず発せられずにいられなかった昔の青年達のほうが
暗さを恐れる現代の若者達よりもはるかにいきいきと頼もしく感じられるのです。

昔はよかった、と言ってるわけではありません。ジョークやかろやかさをつまらない
といってるわけでもない。
ただ、私達は悲しむべきときに悲しまない人間にだけはなってはいけないと思うのです。
暗いものを暗いと感じ、悲惨なものを悲惨と見、そして、怒るときは怒り
その気持ちを率直に友人や家族達にぶちまえて悲憤慷慨するような、
そんな人間のあり方のほうが、魅力的に感じられるだけです。
僕は深く悲しむものこそ本当の喜びに出会うものだと思います。
暗さのどん底におりていく人間こそ、明るい希望と出会えるのではないか。
親しい友達や家族と顔を合わせたときに
「なんて悲しいことかしら!」
と率直に言えるような、そんな感性こそ、
今の私達にとてもだいじなもののような気がしてならないのです。



この文書は、高校の3年のときに学んだもので。
当時の自分が見てもなるほどなあと、感慨にふけることのできたものなのですが
今見ても、同じようなことを思えます。

自分自身も深く共感できる部分の文書がここです。


僕は深く悲しむものこそ本当の喜びに出会うものだと思います。
暗さのどん底におりていく人間こそ、明るい希望と出会えるのではないか。


というこの部分

ここは自分も深く認めているところであり
自分自身の考えであり意思なのだ


心の大きさとか偉大さというものはどれだけ
苦しむかによるのだろう
どれだけ苦しむかによって周りの苦しみがわかるし苦しまないと
本当の意味での優しさなんていうものは持てない

楽しさや自己満足やおせっかいでは本当の意味での優しさは
手に入らないんだろう

自分の中に優しさというものを持てないのだろう


それは自分の好きな歌の歌詞にも見受けられるものだ

贈る言葉の

「悲しみこらえて微笑むよりも涙かれるまで泣くほうがいい
人は悲しみを背負うほど人にはやさしくできるのだから」


という部分や


あ〜よかったの

「もしもの話が嫌いなあなたに一つだけさせてほしいお話
もしもうつむいて倒れかけたら泣き虫な私のそばで泣いたら良いよ」


という部分などにも上げられているとおり

泣きたいときには泣いたら良いのだ
悲しいときには悲しんだらいいのだ


それを、笑う力に変えればいい


今日の一口<ユーモアの源泉は哀愁である>


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