おぎそんの日記
おぎそん



 浮き彫り

せつないのは、自分が知っていると思っていた、慣れ親しんだ場所が変わっていくのを見ること。
それを実感してしまうこと。

亡くなった人が残したものを見ること。
生前に使っていたものがなくなっていることに気づくこと。
白地に黒字で記入するみたいじゃなくて、黒地からぽっかりと白い部分が抜き取られたような感じ。

今日の法事の感想。

2006年05月27日(土)



 サバイバル

おぎそんって、知ってのとおり内弁慶です。はい。

質問とかも上手くできないんです。ずーと黙ってると言うか、タイミングがわからない。
A・タイラー「時計を巻きにきた少女」であったと思うんだけど、なんかおぎそんが学校を休んでいるときにみんなは習ったんじゃないか、と思ったりするし。

別に、おぎそんが「かわってる」とかは認識したことはないんだけど、そう思われるのはなんでだろう、といつもいつも不思議だったのです。


もともと、そう明るいわけじゃないし伝えたいことを飲み込んでしまう傾向があるから。
だから、思ったことをそのまま言えた、そしてそれを受け入れてくれた大学のときの環境ってすごく貴重だったんだなぁとイマサラながら思います。

あのとき、向き合ってくれた人たちに感謝を。

受け入れてくれたから、おぎそんは助けられました。今もその記憶があるから助けてもらってます。
まぁ、サバイバルってことでとりあえずは生き抜いていきましょう。


おぎそんは、辛い環境の中でサバイバルしている人たちを応援しています!

2006年05月21日(日)



 だってしょうがないじゃない

半分、諦めているのだけれどもやはり「うーん、やっぱりおぎそんってオンナノコ的だよね」と言われるとなんだかなぁと思う。

しょうがないじゃん、これで四半世紀も生きてきたんだもんっ!>だもんっ、じゃないだろ

2006年05月19日(金)



 ね、頑張るよ

薄々思っていたのだけれども。
おぎそんって自閉スペクトルっぽいかなぁと。軽度だけど。

やることとか、結構口に出して、ブツブツ言ってるんです。
あれが、こーして。これがあーして。

まぁ、括ってもしょうがないことだし、どうにでもなれとも思うんだけど、みんがそういうこと(ある種、指差し確認みたいなこと)をしなくてもできるっていう事実に個人的にはちょっとうらやましいなぁと。
いや、みんなそういうところが実はあって表に出してないだけなのかもしれないけれども。

来週に護身術の検定があるのですが、その術(まぁ、空手とかの「型」って言えばいいのかしらん)とかも結構種類があって、おぎそんは憶えることにまずパニックです。
これは、右足をまず出すでしょ。そんでこれは、まず左手で掴んで・・・。

こんなことをしてるから「センスがない」なんていわれるのかしら。よく原因がわかりませんけど。

まぁ、とりあえずは来週の更新があったら、無事に検定に合格していたのかなぁ、と思ってください。
なかったら?
・・・それは聞かない約束で>でも、検定に合格しなかったら施設に帰ってからが針のムシロという罠

2006年05月14日(日)



 これからはあるくのだ

知人とご飯を食べていたら(21時過ぎ@梅田)、いつのまにやら時が過ぎてしまい終電を逃してしまいました。
おぎそん、この怖い大阪の地で初めてですよ。
てゆーか、終電が0時41分なのになんで乗り逃しちゃうんでしょうね。気づいたら(駅から徒歩10分くらいの地点)、あと3分ですよ?、みたいな。

まぁ、お話してて勉強になる人だし、とても楽しかったけど、研修生活の現在。やっぱり夜遅くはムリなの。
だって、朝6時30分に起床して、22時30分に就寝だもの

2人ともうつらうつらふねをこぎながらなんとか帰ってきました。


研修生活もようやく(もうすぐで)折り返し地点。
時々、おぎそんを評して「裏表がないよね」と言われる。
そうなのかな?
確かに、裏表がないように、キチンと言動が一致するようには心がけてはいるけれども、公式に毒舌も吐いていないおぎそんを>ホントダヨ?そう評するのはどうかと。
思っていることはいろいろあるけれども、それを100%表現することがいいことだってことじゃないってのはわかってる「つもり」だし。

適応することは手段であって、目的じゃない

すごく大事な言葉だと思う。

全ての人に受け入れられることはできない。でも、できることなら嫌われたくないなぁと勝手に思う。それを見透かされることもしかり。
思い通りになることなんて、ほんとどないけれどもでも少しくらいは希望を持ちたいと思う。
自分の足であるこうと、思う。

自転車やオートバイや車、電車・バス・飛行機・船もうらやましいんだけどね。

2006年05月13日(土)



 願うこと・伝えること

願うこととは、その願いが確実に実現されることが保証されないことを前提としてなされる行為であるだからそれはいかにも弱いもののように思えるしかし願いは、あなたの自由を、好むにせよ、好まないにせよ認めていることにおいて、あなたの存在を認めている。認めているからこそ願われている

立岩真也「子どもと自己決定・自律―パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」(少年非行と子どもたち)p39より



2006年05月06日(土)



 あなたと握手

手を握る、ということ。
そこにはそんなに大きな意味はないのかもしれない。単なる接触行為というだけで。

でも。
何もできないけれど。
ただ、”そこに居ていいよ””そこに居るんだね”というある種の承認が含まれているような気がする。
そういうチカラがあるように思う。

”ここに居るよ”とはなかなか言えなかったり、小さな声では届かなかったりする。
そのときに”聞いてくれる?”とはなかなか言えないくらい、とりあえず声を発するだけで精一杯の時があるように思う。

でも、大きな声じゃ大切な「何か」が零れ落ちてしまう気がするから。
零れ落ちたもの、忘れてしまったものにあんまりたいした物はないよ、なんてい意見はあるを承知の上で。

小さな声でいいからそっと”ここに居るよ”とつぶやいてみる。

肝心なことは、声の大小に関わらず伝わると信じたいから。
伝わってほしいから。
伝えたいから。

握手してくれてありがとう。
手をつないでくれてありがとう。
受け入れてくれてありがとう。

ボクはここに居るよ。

2006年05月05日(金)
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