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2024年06月29日(土) ■ |
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『SLEEP スリープ』 |
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『SLEEP スリープ』@シネマート新宿 スクリーン1
いやはやなんとも奇妙な映画。観終わって時間が経てば経つ程、夫婦という関係の危うさが愛しく、おかしく、怖くなってくる。原題『잠(眠り)』、英題『Sleep』。2023年、ユ・ジェソン監督作品。今作で長編デビュー、脚本も手がけたユ監督は、かつてポン・ジュノ監督の助監督を務めていた人物。映画館で流れていた予告編も、ポン監督の推薦コメント付きだった。
睡眠中に奇行を繰り返すようになった夫。夫を治そうとがんばる妊娠中の妻。そう、妻はがんばる。とにかくがんばる。少しずつ積もっていく違和感。部屋に飾られたふたりの幸せそうな写真。これはまあよくある。テーブルに置かれたハンディドリル。ん? いや、でも、引っ越したばかりだとか、リノベ好きの家庭にはあるかな? 「ふたり一緒なら何でも克服できる」という木彫のスローガン。んん?? いや、韓国の家庭にはあることなのかもしれん。夫を案ずるあまり、しかし自分は異常ではないと理論的に伝えるため、スライドショーを作成しプレゼンを行う妻……んんん??? これは国の文化の違いなんだろうか、それともこの夫婦が特殊なんだろうか……。
「家」(家父長制ともいえる)に縛られていない夫婦は韓国では現代的な方なのかもしれない。ただ、出てくる家族のありようが、意図的に限られたものになっているように感じる。父親は不在のものとされる。妻の実家には母しかいない。夫の実家はその気配すら見せない。階下に引っ越してきたのは母子家庭。夫は「男」に憑かれていると霊能者に告げられた妻は、元彼たちが今どうしているかを探る。
映画は3つの章に分かれる。時間が進むにつれ夫は回復の兆しを見せ、反面妻の奇行が目立ち始める。妻は眠っている夫の口に薬を押し込む(明らかに用法用量を守っていない)。病気が治る迄別居しようと提案する夫を叱りつける。最初は怪しんでいた霊媒師のいうことを信じるようになる。「一緒なら何でも克服できる」と何度も繰り返す。夫は妻の提案を何もかも受け入れる。実力はあるが不遇の俳優である彼は、妻を安心させるため、妻の意見を尊重するため、「妻の愛する夫」を演じ続けているように見えてくる。彼の最後の言動は果たして「演技」なのか?
ふたりの仲睦まじい生活は微笑ましく、それだけに夫と妻という関係の曖昧さ、不安定な様子が浮かび上がる。互いを守ろうと起こした行動は、「賢者のおくりもの」となるのだろうか? 彼らの人生はまだまだ続く。観客は呆然と、ふたりの幸せを祈るしかない。ただその幸せとは、「ふたり一緒」のものとは限らない。階下の住人の言葉は示唆的で、ひととひととの関係の儚さ、不可解さを思わずにはいられない。
妻はチョン・ユミ。明るく聡明な女性が少しずつ不安定になっていく様子が見事。目の力がすごい。血走った白目すら美しい。夫はイ・ソンギュン。実力はあるが不遇の俳優、という役を演じる俳優。複雑かつ繊細な演技。赤子の扱いが巧かった。ソンギュンさんの遺作のひとつにもなるのかな。遅まきながら彼のことを認識したのが『パラサイト 半地下の家族』、これはすごい役者だと思い知ったのが『キングメーカー 大統領を作った男』だったので、これから観られる新作があと少ししか残っていないことが悔しく、やりきれない。あの心地よい低音の声が聴けるのもあと数作。しかし、残されたものを繰り返し観ることが出来るという意味で、やはり映画は素晴らしい芸術だと思う。
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・スリープ┃輝国山人の韓国映画 キャスト、スタッフの詳細なクレジット。いつもお世話になっております
このレトロポスター、劇場にも飾られていました。「隣にいるのは だれ ですか?」というコピーが秀逸。当初のコピー「目覚めだす──」よりよかったかも?
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2024年06月08日(土) ■ |
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『罪深き少年たち』 |
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『罪深き少年たち』@シネマート新宿 スクリーン1
原題『소년들(少年たち)』、英題『The Boys』。2023年、チョン・ジヨン監督作品。韓国映画にはファクション(ファクト+フィクション)と呼ばれる作品が多く、今作もそのひとつ。
1999年に起こった強盗殺人事件「参礼(サムレ)ナラスーパー事件」が元になっている。犯人たちは夜中に店に押し入り、住人の口をテープで塞ぎ金品を奪った。その際、高齢の女性が命を落とした。少年3人が逮捕され立件、実刑判決が下り刑期を終えたが、真犯人がいるという情報提供から再審となり、無罪判決となった。警察と検察の杜撰な捜査、虚偽自白を強要する暴力や脅迫行為が明らかになった。
実際の事件のことを知らなくても、キーマンを演じるのがスター俳優なので展開は読める。しかしそこには、こうあってほしい、こういうひとがいればよかったのに、という願いが込められているように感じる。警察内部にこんなひとがいてくれれば。被害者の勘違いがなければ。濡れ衣を着せられた少年たちの話を真摯に聞き、迅速に動いてくれるひとがいてくれたら。大人たちの後悔が続く。自分たちがいかに取り返しのつかないことをしてしまったか、懺悔の記録でもある。
その結晶として、映画ではひとりの人物が造形される。映画を観たあと事件のことを改めて調べ、より苦く感じたのは、このソル・ギョング演じる“狂犬”が架空の人物だったということだ。犯人に喰いついたら離さない、検挙率ナンバーワンの刑事。彼の周囲にはまっすぐな人間が集う。彼の妻と娘、彼を慕う部下。よりにもよってこの部分が“フィクション”だったか……と、やりきれない思いにもなった。それでも彼らの存在は救いでもある。不正を見過ごせず、どんな逆境にあってもユーモアを失わない人々。そんなひとたちがどこかにいると思える希望と、そうありたいと思う理想。
“ファクト”側の結晶もある。ソ・イングクが演じる人物の決意だ。彼の罪は大きいが、それでも人生はやりなおせるということを示してくれる。こういうところはクリスチャンの多い韓国ならではの人生観なのだろうか、実際の事件で再審を請求したのも、少年たちの話を聞いた全州刑務所勤務のカトリック教化委員(日本でいう教誨師だろうか)だったとのこと。
事件当時と現在(再審へ向かう様子)を交互に見せる流れは正直リズムが停滞気味で、時系列でよかったんじゃないかなどと素人は思ったが(あと遠洋漁業に出たあいつはどうなったんだよとか)、さまざまなすれ違いや勘違いが起きた当時のことを、現在パートでひとつずつ解きほぐしていく過程には説得力があった。韓国語話者ではないので重要な“訛り”を聴き分けられなかったのだが、台詞でフォローしてくれたので理解出来た。そういうところが丁寧。
イケオジとくたびれ両方のソル・ギョングを堪能。彼の部下役がホ・ソンテ、いい味(若い頃の髪型とファッション!)。憎まれ口を叩きつつ夫のことを信じている妻を演じたヨム・ヘランも印象的。お店を掃除する夫にやめんかいって怒るシーン、よかったなあ。ソ・イングクは意欲的な作品選びをしますね、リスキーな役を積極的に受けている印象がある(パン屋さんのシーンがあってよかったね……というかこれ、フォローなのかな)。3人の少年役もよかった。子役もそっくり!
再審を終えても、警察と検察に所謂“お咎め”はなかったという。闇は根深い。スーパーの店名を「ナラ」から「ウリ」にしたところにもメッセージを感じた。ナラ(나라)には「国」、ウリ(우리)には「我々、私たち」という意味がある。これは私たちに起こってもおかしくない。他人事でいてはいけない。そのことを忘れず、何度でも思い出し、ウリナラ=私たちの国をよくしていきたい。祈りにも似た思いが込められているように感じた。日本でも袴田事件や飯塚事件、日野町事件、最近では大川原化工機事件、鹿児島県警の隠蔽疑惑(疑惑も何も)がある。そのことを忘れてはいけないし、他人事でいてはいけない。
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以下ネタバレ:
冒頭のツイートにも書いた検事役はなんとチョ・ジヌン。公開情報一切に名前出てなかったのでホントビックリした、「え!」て声出そうになった。友情出演とのこと。また芝居も巧いからさあ、ほんっと憎たらしいのよ! あのシレ〜ッとしたトボけ顔な! 腹立つわ〜。『ソウルの春』のファン・ジョンミンもそうだけど、著名な俳優がこういう役をちゃんと引き受けるところには志の高さを感じる。
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・罪深き少年たち┃輝国山人の韓国映画 いつもお世話になっております。少年たち(事件当時と再審時、どちらも)を演じた役者さんたちの情報も載ってて有難い。ていうか、パンフレットにはそういう情報を載せてよ
・前政権の事件は暴いたが、検察の責任は曖昧にした過去史委員会┃東亜日報 過去史委は、(中略)「参礼(サムレ)ナラスーパー強盗事件」では、真犯人が自白したにもかかわらず釈放した当時の捜査検事(現・大手法律事務所弁護士)の責任すら取り上げなかった。
・[インタビュー]「落ちぶれ弁護士」のストーリーファンディングが一日で7千万ウォン┃hankyoreh japan (検事長や判事出身など数十億ウォン台の受任料を得る「前官不正」が明らかになった)問題のある弁護士が多い韓国社会では、彼らに対する反作用と言うべきか、例えば正義に対する期待感みたいなものがあったのではないだろうか。 いくら世の中が暗くて正義が消えてしまっても、市民たちが自分と変わらない、別に立派でもない平凡で普通の人がこんな仕事をすることに対する応援だと考えます。 再審を請け負った弁護士の、2016年の記事。“「評判の再審弁護士」から自ら「落ちぶれ弁護士」になっていることを告白”なんて……なかなか複雑な気持ちにもなります。 実際の事件に巻き込まれた少年たちの画像も。映画の再現率に驚きました
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2024年06月01日(土) ■ |
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『ライカムで待っとく』 |
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『ライカムで待っとく』@KAAT 神奈川芸術劇場 中スタジオ
キャッシュ、データ、まぶやーの話に絶望と希望が詰まっていた。とても幼く、思いを言語化出来ない(から口寄せ出来ないと解釈した)まま死んでいったちいさなこどもたちの魂は、今もそこらへんを自由に飛びまわっている。だから戦没者として“名前”が刻まれ残されていることは重要だ。(戦没者墓苑がある)糸満に行く、とはそういうことだと解釈した。それでもなお、“名前”がつけられる前に死んでしまった者もいる。そして“名前”が残されていない者は、今も沖縄にいる。死んでいる者も、生きている者も。身体を殺された者、心を殺された者。
沖縄の海はいつも美しい。しかしかつては血と肉片と泥に濁った時代がある。今は埋め立ての泥に濁りつつある。それすら海は呑み込んでしまう。そうなると記憶がだいじになってくる。忘れることなく、考え続けること。
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沖縄本土復帰50年の2022年に初演。評判は瞬く間に伝わってきたが、日程を確保出来ず逃してしまった。KAATプロデュースとはいえ東京公演はないだろうかなどと呑気に思っていたのだが、今回観てわかった。これは神奈川の話でもあるのだ。KAATの芸術監督である長塚圭史が、1964年の沖縄で起こった米兵殺傷事件を扱ったノンフィクション『逆転 アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判』を読み、兼島拓也に劇作を依頼したことでこの作品は生まれた。横須賀や厚木など神奈川の基地と、沖縄の基地はどう違うのか。
たまたま沖縄出身の女性と結婚した雑誌記者が、事件のことを調べ始める。葬儀のためたまたま沖縄へ向かい、たまたま乗ったタクシーで、沖縄の現実を知らされる。記者は日本返還前の沖縄、沖縄になる前の琉球王国へと導かれていく。コラージュのように、時間と空間は行き来する。物語はいつの間にか、観ているこちらにも降りかかってくる。実際の裁判記録から起こされたであろう台詞は、アメリカの法による裁判の理不尽さを示す。検察による質問は、沖縄の言葉は日本語ではないと証人たちを追い詰める。しかしその言葉は、沖縄の方言を全ては聴き取れず戸惑う観客にも視線を送ってくるのだ。
たまたまそこにいたから、たまたま帰りが遅くなったから、たまたま不満がつもっていたから。繰り返される「たまたま」は、沖縄そのものでもある。たまたま沖縄が日本の最西端にあって、米軍に上陸されたから。遡れば、たまたま琉球がそこにあって、日本の領土になり沖縄県になったから。観る側もそうだ。たまたま沖縄以外に生まれたから、沖縄を「日本のバックヤード」にしている。そのことを軽やかに示される。観客は責められている訳でない。しかし、自虐とも露悪とも諦観ともつかないその明るさを前にして、返す言葉を持てずにいる。
瞠目したのは、その時間と空間の行き来を、演者の肉体で見せたシーン。ケンカの振る舞いが空手の型となり、カチャーシーへと移行していく。歴史と地理がその一瞬で結びつく。呑み屋でカラリと鳴らされる三線、酔って踊る男たち。笑いと叫びが入り混じった、乾いた音。田中麻衣子の演出が光る。ビニールカーテンで「境界」と「水平線」を舞台に出現させた原田愛の美術、齋藤茂男の照明も印象深い。
初演は亀田佳明だった(観たかった……)記者役は中山祐一朗。言葉を扱う職業の彼が、「寄り添う」という言葉の限界を見せつけられる。沖縄在住者ではない日本の一市民の無自覚性、戸惑いを見せて好感。沖縄パートの演者はほぼ沖縄出身者で、日常会話としての方言を聴かせる。今迄意識したことがなかったが、あめくみちこが沖縄出身者だと知る。死者と話せる(ユタではない)女性を達観として見せる。佐久本宝は初めて知った役者。三線に歌、あらゆる仕草。素晴らしかった。沖縄で生きる女性と、神奈川で生きる女性両方を演じた蔵下穂波も忘れがたい。
1995年の12月に何があったか。劇中ではその数字しか語られないが、ある程度の世代ならハッとするだろうと思う。あんなことがあっても、今も「沖縄の決まり」が繰り返されていることに、やりきれない思いになる。観劇後に知ったが、このパートは再演にあたり加えられたシーンだそうだ。心身ともに傷つき、まぶやーが身体から離れてしまったひとびとは増え続ける。再演され続けてほしい。ただ、観客はこの作品に接する度「物語としての消費」とどう折り合いをつけるか悩むことにもなるだろう。だからせめて考え続けなきゃならない。記憶を消してはいけない。「中立とは権力の側につくこと」という台詞を噛み締め乍ら。
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・『ライカムで待っとく』|KAAT 神奈川芸術劇場 ・『ライカムで待っとく』(2022年)|KAAT 神奈川芸術劇場 ◆「ライカム」とは かつて沖縄本島中部の北中城村比嘉地区に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarters)の略。現在「ライカム」は地名として残っている。司令部があった近辺の米軍関係者専用のゴルフ場の跡地には、2015年「イオンモール沖縄ライカム」がオープン。地元民のみならず県外からの観光客も多く訪れる場所になっている。
沖縄の海とも繋がっている神奈川の海
・丁度今読んでいる『韓国映画から見る、激動の韓国近現代史』で沖縄と済州島の共通点が挙げられている。「バックヤード」はどこの国にもあるのかと思うとやりきれない
おまけ。こんな作品を観たあとにお菓子を買って帰る訳でな。なんだか後ろめたい。 KAATでの観劇は小旅行的な気分もあって、劇場へ行く前にニューグランドのお菓子を取り置きしてもらい、観劇後に受け取り、海を見て帰るというコースを定番にしている。ここ3年は軽食を予約してお菓子と一緒に持ち帰っていた。フィッシュ&チップスとかすごいおいしかったんですよね…フィッシュが鯛だったのよ……
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