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2020年02月22日(土)
彩の国シェイクスピア・シリーズ第35弾『ヘンリー八世』

彩の国シェイクスピア・シリーズ第35弾『ヘンリー八世』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール


そうなんです、まず目をひいたのは衣裳(西原梨恵)。ジャケットや礼服が今っぽい。これ迄「時代劇」という意識で観ていたシェイクスピア作品が、グッと身近に感じられた瞬間でした。最初に登場するノーフォーク公爵を演じていた河内大和さんが非常にプロポーションも姿勢も美しい方なので、尚更衣裳がひきたっていましたね。

描かれている世情や政治が、とても現代に近い。枢機卿が税金で私腹を肥やし、王は離婚裁判で揉める。疫病がはやり、政府の対応が遅れているなんて台詞も飛び出したので慄きを通り越してちょっと笑ってしまうくらいだったのですが、シェイクスピアシリーズがようやくこの時代迄きたか、という感慨も覚えました。

時代に寄り添った演出も的確。一幕終盤が白眉。キャサリン(オブ・アラゴン)妃と枢機卿たちのくだりは、セクハラパワハラに立ち向かう女性(が敗れるの)を歯ぎしりする思いで観ました。毅然とした立ち居振る舞いの宮本裕子さんが素晴らしく、観客の誰もが彼女の味方になりたいと思ったのではないでしょうか。男性のふるまいにドン引きする女性たち、という酒宴の描写も、観る側の意識の変化をうまいこと掬い上げているなあと思いました。観客には小旗が配布されており、王の婚礼パレードでその小旗を皆で振る、という参加型演出もあったのですが、その図式にもいろいろ思うところがありました。個人的にはこの手の観客を巻き込む演出が苦手で、入場時小旗を渡されたとき鼻白んだのですが、先導役の役者さんが必要以上に力まない指導で無理なく進んだということと、実際多くの小旗に迎えられ入場した婚礼パレードはヴィジュアル的にも昂揚を呼ぶものになっており、つられてこちらもニコニコして旗を振ってしまいました。うーむ、大衆心理って怖い(笑)。こういうひとなつっこさも吉田鋼太郎演出の特徴かもなあ。憎めないわ……。大団円の影で葬られた三人を成仏(?)させるような幕切れもせつなくてよかったです。

それにしてもこの、ヘンリー八世の人物像。晩餐会で女官に一目惚れ、裁判ではつらい〜今の自分の信仰では離婚出来ない〜と、おまえは何をいってるんだ…傲慢を通り越してバカなのかな……とすら思ってしまった(ヒドい)のですが、そうした事実を描き乍らも「王はこんなに悩んでたんですよ、世継ぎのプレッシャーも強くて困ってたし、キャサリン妃のことも心配してたんですよ。王は悪くないんですよ!」ってなふうに描かれているのです。なんなんだこの、腫れ物に触るような感じ……とモヤモヤしていたのですが、『ヘンリー八世』講座に出ていたジェンヌにヘンリー八世は人気のあったエリザベスの父なので悪く書けないらしく。プロパガンダ的側面もあったのではという説もあると教えられ視界が晴れました。成程ねー! それがわかればすっごい納得するわ、なんかすっごい口を出されたり手を入れられた感じするもんね……シェイクスピアですらそうなのか。劇作家もたいへんですね……。

劇中ウルジーがキャサリン妃とヘンリーにビンタされる演出があるんですが、ヘンリーにビンタしたいと思ったひとは多いのでは(笑)。演じていたのが阿部寛さんじゃなかったら相当不快なキャラクターになっていたかもしれません。阿部さんの姿(体型)、コントギリギリ迄皮肉を効かせた場面でも保たれる威厳。悩み多き王を阿部さんで観られてよかった。内心ツッコみつつも愛すべき人物像にしなきゃならないからたいへんだっただろうなあ(やりがいはあるかも?)。

ウルジーはフォルスタッフにも通じる哀れを誘う愚か者、やるのは楽しかろう役。鋼太郎さん嬉々として演じてらした。河内大知さんにはさい芸シェイクスピアシリーズ残りも出てほしい! そして谷田歩さんがバッキンガム公爵ともう一役やってるんですが、そのもう一役が見ものです(笑)。

ネクスト鈴木彰紀さんはキーとなる(ウルジーが失脚する原因をつくる)クロムウェル役を演じていたのですが、ここちょっと不思議でもあったのです。クロムウェルはウルジーの秘書兼お稚児さんとして描かれているふうだったのですが、何故あんなことをしたのだろう? 告発の意味もあった? でもその後、ウルジーがいなくなったあと他の公爵たちを責めたりしているし……どうにも辻褄が合わないというか、ふるまいが不可解というか。ウルジーとクロムウェルの別れの場面はとてもエモーショナル(というか主に鋼太郎さんがエモい)だったので、ちょっと思いなおしたりしたのかなー、魑魅魍魎が跋扈するこの場で生きていくにはああいうスタンスになるのかなーなんて思ったのですが、これもジェンヌから鋼太郎さんが「ウルジーがそんなミスはしないはず」とちょっと変えたと教えられ膝を打った。見せ場が増えた分矛盾を被っちゃった感じかな。それにしてもあの子(役の方)これからどうすんのかなー、穏やかに暮らせているとよいなーと調べてみたら、処刑されてた(泣)。

ところで彼、エセックス伯でファーストネームがThomasなんですね……。エセックスでThomasといえばSquarepusherじゃないの〜とニヤニヤしました(病)。

音楽と演奏はサミエルさん。ステージに設置されたバルコニーのセンターを陣取り、劇中ずっとそこでオルガン(かな)を演奏していました。テーマ曲すごいよかった! 聴いて以来しょっちゅう脳内再生しています(というか気を抜くと脳内で鳴る)。ただ、大舞台に慣れていない方だったのかめちゃくちゃミスタッチが多くてですね…カーテンコールではミスタッチがミスタッチを呼び焦ったのか相当怪しい演奏になってしまったのでハラハラしてしまった……。次はがんばれ!(次?)

沸騰した水はかさが増したように見えるが実は減っているのだ〜とか私の人生は日没に向かっている〜とか天使ですら罪を犯すんだから天使の似姿である人間はそりゃモーとか耳(読むなら目)においしい台詞は毎回楽しいなー。内容はアレですがやっぱり原作も読んでみようかと思いました。さい芸のこの企画がなかったら、上演機会の少ないこの作品を観ることもなかっただろうし、こんなにシェイクスピア作品を観ることもなかっただろうし、シェイクスピア作品がどうしてこうも長い間世界のあらゆる国で上演され続けているのか、現代演劇に影響を与えているのか考えることもなかったと思います。感謝。次は『ジョン王』だ!

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・ヘンリー八世限定メニュー┃イタリアン『ペペロネ』
うまそう



2020年02月15日(土)
『ねじまき鳥クロニクル』、DÉ DÉ MOUSE “Nulife”Release Tour

『ねじまき鳥クロニクル』@東京芸術劇場 プレイハウス


真夜中、何をするでもなく(原稿待ちですわ)他人と長時間一緒にいる空気。夜食を買い出しに行って、見上げたビルにひとつだけ明かりがついているフロア。車も人通りも殆どない夜道を歩くとき、肌にあたる冷たい空気。決して嫌ではないのだ。むしろそれが楽しかったりもして。ただ、頭上に蓋があるような感じがしていた。そんな感覚がフラッシュバックする。

インバル・ピントの描く、村上春樹の世界へようこそ。ピントの作品を観るのは『100万回生きたねこ』以来。このときはアブシャロム・ポラックが演出パートナーでした。今回のパートナーはアミール・クリガーと藤田貴大。ピントは演出、振付、美術を、クリガーと藤田さんは脚本と演出(クリガーはドラマターグも)を手掛ける。音楽と演奏は大友良英。

村上作品の熱心な読者ではないけれど、舞台化されたものを観るのはかなり好きなのです。『ねじまき鳥クロニクル』を最初に舞台で観たのは1993年、ニナガワカンパニー。オムニバス上演の一編として、ピーマンと牛肉の炒めもののシーンが演じられました。今回そこはなかったな。チョイスされていたのはトイレットペーパーとティッシュペーパーのくだり。このどちらかがあることで、トオルとクミコのわかりあえなさが伝わる。あの長編を三時間にまとめる場合、どの部分を選べば舞台が成り立つかを考える構成もだいじになる。藤田貴大の苦心と工夫が窺える。

台詞劇と歌による語り、そしてダンス。そして機動力あふれる装置。ミュージシャンは大友さんとイトケン、江川良子。たった三人でいくつもの楽器を使い分け、楽曲と劇伴を演奏する。インプロ的な部分も多い。舞台上の情報量がとても多いので、集中力がいる。歌への切り替えには疑問符がついた(台詞と身体表現でもはや不足はないと思われた)が、シーンを単独で考えると、成河と渡辺大知の歌はやはり心に響くものがあった。成河さんはミュージカルで培われた「物語る歌」、渡辺さんはバンドで唄ってきたからこその「投げかける歌」。この対比は楽しめた。ふたりがまぐわうようなダンスも滑らかで美しい。身長差のあるふたりが絡み合うことで、二体いる岡田トオルという人物が溶けてひとつに混ざり合い、現実世界と異次元(といっていいのだろうか)を往復するモノとなっていくさまが視覚化された。大貫勇輔と徳永えりによって演じられる、綿谷ノボルと加納クレタの性的かつ暴力的なシーンも素晴らしい。大貫さんのダンスをまた観られた、といううれしさがあった分、もっと観ていたくもあったが。『喜びの歌』で知ったんだけど、気になる表現者です。

目の前にいる人物がぬらぬらと闇に絡めとられていく様子が、ダンスによって表現される。不可解なできごとの象徴のようでもある。圧巻は吹越満による間宮中尉の告白のシーン。戦時中、人間の嗜虐性が露になる瞬間を淡々と語る。アンサンブルのダンサーたちに抱え上げられ、重力に逆らった体勢を続け、自身の体重を自身で支え乍ら語る。頭に血が降り(昇り?)額がみるみる赤くなっていく。演者の身体にかかっている負荷が、間宮中尉の受けた苦痛となり表現される。しかし声のトーンは全く変わらない。語り手の間宮中尉からすれば、この出来事は過去のことだからだ。声のトーンと語られる内容のギャップ、視界を限定するほのかな灯り。見えない暗闇と歴史の暗部が繋がる瞬間。直視するしかない。息を殺して見入る。というか観ている、ということを忘れるくらい、目の前で起こっていることに没頭していた。間宮が退出し、ふと我に返る。吹越さん、すげーーーーーーー長ゼリじゃねえの。怖い!!!!! すごいな!!!!!

広田レオナさんのツイートによると長台詞は17分。身体表現を含めると20分以上はあったように思う。戦争の実体験を語る人間はそろそろいなくなる。頭脳と身体を駆使して作家は書き、役者は言葉と肉体で語る。吹越さんのような、役者という生き物(©筧利夫)がいれば、過去はいつでも甦り、歴史は忘れ去られることがない。安心と敬意、そして感謝。

門脇麦は笠原メイの若々しい身体と、電話の女の老熟な声の両極を演じる。声の方は最初門脇さんとわからなかったくらいの迫力。銀粉蝶は身のこなしそのものがダンス、そして唄う台詞。素晴らしい。村上春樹の作品で、必ずといっていい程描かれる性と暴力の描写。読み手の感覚を鋭敏にするテキストを舞台で表現することの難しさ。その嫌悪と歓喜をカンパニーは届けてくれた。好みは分かれるかもしれませんが、私は大好きな作品でした。

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・成河&渡辺大知、村上春樹作品の美を表現「ねじまき鳥クロニクル」開幕┃ステージナタリー

・成河が語る、村上春樹×インバル・ピント×藤田貴大『ねじまき鳥クロニクル』┃SPICE
吹越さんと成河さんの共演が観られたのはうれしかった、成河さんもうれしかったそうです(ニッコリ)。ふたりはかつてサイモン・マクバーニーの演出を受けている。そして吹越さんが出たマクバーニー作品は、村上春樹の『エレファント・バニッシュ(象の消滅)』だった(初演再演

・カーテンコールでステージセンターに立ってニコニコとお辞儀をするおおともっちが見られます(微笑)

・オカダトオルというとどうしてもMOONRIDERSの岡田徹さんを連想してしまう

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DÉ DÉ MOUSE “Nulife”Release Tour@WWW X


渋谷駅の改札を出て再びうへぇトム〜となった(参照)あとのことですからウハーとなりますよね。デデくんといえばトムですよ(?)、\DJ!/

ハシゴ。観音さん引退につきトリオ編成となったバンドセット、どうなるかな? と思っていたのですが、シンセドラムやマラカス等の小物を駆使してリズムを強化、『Nulife』のラテンサウンドがまあハッピーなこと。ハッピーなんだけどKeyによるリフには哀愁があるってとこがまたよくて。今作は別れや悔い、あやまちを認める強さといった痛みが表現されたものが多いので、泣き笑いにもなります。なんてせつないダンスミュージック。

MCで「前回のツアーはディスコってコンセプトがあったからノンストップで演奏したけどわかりづらかったみたいで! 『be yourself』(前作)の曲ばっかでつまんなかったとかいわれて! SNSとかで!」「『Journey to freedom』とか『Dancing Horse in My Notes』とか聴きたいんでしょ!」「こんなの(『Nulife』)ばっかつくってないで『A journey to freedom』みたいなの作れよと思ってるんでしょ! 知ってる!」と毒づきながらも(それで場がイヤな感じにならないところ、このひとのキャラクターと話術ですよねえ)、「でもそれもわかるの。刷り込み現象っていうの? 最初に聴いたのが『A journey to freedom』だったらそれはそうなりますよ。それは超えられないよ。でも『Nulife』が誰かの最初に、刷り込みになるかも知れないじゃん! だから僕は挑戦を続けるんです!」みたいなことをいってて、これには自然と拍手贈りましたよ。

そして今となっては思い出せない、私にとってのデデくんって何の曲が最初だったか。ライヴだったんですけど。菊地成孔との対バンだったんですけど。これがあまりにも衝撃だったので音源探し始めたんですけど。しかし思えばこれも刷り込みだなあ、ライヴがすげえ! とその後通いつめることになったのだし。

閑話休題。そういいつつもアンコールで「Journey to freedom」やってくれるとこがこのひとの度量ですわ。過去と今は繋がっているなー。それにしても『Nulife』のナンバーのライヴ映えすることよ。そして熱量の高さよ。このセット、夏のフェスとかでまた観たいな。新型コロナウイルスの影響で、ツアーファイナルの台湾公演が延期になってしまったのは残念。事態がはやく落ちつくといい。



2020年02月08日(土)
第7世代実験室『勝手に思うから』

第7世代実験室『勝手に思うから』@新宿ゴールデン街劇場


現代演劇の第二世代がつかさん、第三が野田さん、第四が鴻上さんでしたっけ? なんかそういう括りありましたよね。90年代前半には、我々が世代を担っていくと宣言した「第五世代」という劇団もありました。今は第七世代くらい、ということからこのユニット名になったようです。さいたまネクスト・シアターのサテライト企画。

暗転から照明がパッと灯る、眼前には開幕前にはなかったススキヶ原。このインパクト、蜷川幸雄のこどもたちだ、と思う。岩松了の『シブヤから遠く離れて』で、戯曲に書かれていた「ススキ」を蜷川さんは「枯れたヒマワリ」へと変換したことを思い出す。50人収容の小劇場で、この美術と演出は見事。

実際この作品には、岩松さんと蜷川さんの影響を強く感じた。台詞のやりとり、階段のある風景、水の扱い、ひとりごととして機能するモノローグ。食事のシーンで役者たちは実際にものを食べ、ちいさな劇場にいい匂いが漂う。客入れ時に流れていた弦楽器の練習/チューニング音や、パッヘルベルのカノンをモチーフにした音楽(椎名京子、芝由佳子)もよかった。講談は神田松之丞のものだろうか?

『薄い桃色のかたまり』は2017年、さいたまゴールド・シアターにより上演された作品で、演出も岩松さんが手掛けた。内田さんがここから大きなインスピレーションを受けたことが窺える。書きたいこと、表現したいことが沢山あったのだろう、まとまりに欠ける印象はあった。しかしハコの性質上、長時間の鑑賞は観客に負担が大きいとも考えたのではないだろうか。1時間20分という上演時間に収めたことには感心した。装置や制作も手練感すら感じるそつのなさで、これまた感心。いやさ、これ迄いろんな不備だらけの小さな公演を観てきたもので、旗揚げでこれはすごいなと。こういうところも、ネクストで鍛えられたものだろうなと思う。なんでも出来るし、なんでもやる。きっとトラブルがあれば代役はすぐ舞台に立てるし、不測の事態があったとしてもうまく対処するだろうという安心感もあった。

それだけに、もう少しこなれたホンでこの役者たちを観てみたいと思ったことも確か。裏を返せば、このホンを1時間20分見せきった役者と演出には素直に脱帽。内田さんの演出の手数はもっと観てみたい。しかし、舞台に立つ内田さんもまだまだ観たいですね。

『よみちにひはくれない』を観たときにも思ったが、シェイクスピア等古典の手法を徹底的に学び上演していたネクストの面々が、現代の普段着で、現代の言葉遣いで話している姿を観るのは楽しくもあった。衣裳や美術も素敵。青いワンピースを着こなす周本絵梨香は流石の存在感。客演もおり、「第一回公演」らしい熱と切実さのこもった演技を見せてくれました。

内田さんは開演前、客席壁にかかっていた時計を取り外しに出て来た。時計の音や畜光が上演の妨げにならないようにとの配慮だろう。受付には堀源起の姿が。堀さん、『よみちにひはくれない』のときのメガネ屋店長さんみたいなナリでした(微笑)。スタッフにもネクストの面々がクレジットされており(そういえばチケット代金の振込先名義は周本さんだったな)、裏方も兼任している出演者が多かった。芝居をしたいという渇望が成し遂げたものだったのだろう。話題性もあったし、継続していってほしい。勿論、ネクストの本公演も待っています。

ゴールデン街劇場、初めて行った。いい雰囲気。あーワタシは小劇場が大好きなんだよ。



2020年02月01日(土)
『ウエアハウス-double-』『ジョジョ・ラビット』

『ウエアハウス-double-』@新国立劇場 小劇場

ウエーイかなり! 近年のなかでも! 好きな!『ウエアハウス』でした!

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ヒガシヤマカツユキ:平野良
ルイケタロウ:小林且弥
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久々にふたり芝居となり、話者が少ない分言葉のやりとりがシンプルかつ濃密になった。こちらの注視が分散することが減った。というのも大きいかな。観客の集中度も高く、もともと音が響きやすいこのハコにして客席からのノイズが殆どといっていい程ない理想的な環境。向かい合う客席、スクエアなステージ、張り巡らされるツートーンのロープ(といっても印象は糸)、匣体の椅子5個、ホワイトノイズ、スキルフルかつエモーショナルな対話を操る魅力的な演者。身長差含めたビジュアルと、声のトーンのバランスも絶妙。平野さんと小林さん、めちゃめちゃいい。

台詞のやりとりがとてもリズミカル。スズカツさんいうところの「理屈っぽい台詞」をこうもわざとらしくなく、理解とともに耳に届けるかという……。「対話」がそこにある。あの台詞量、あの説明台詞は演者の実力を露にする傾向がある。「一所懸命に話しているけど、台詞の内容をどう解釈しているのかな? 賦に落ちているのかな?」と聴き手が戸惑ってしまうことって多々あるんです。それが続くとだんだん台詞が音声だけになっていく。それこそ「にゃーにゃーいってる妻」ですね。それが今回なかったな…すごいな……。平野さんの年齢は存じ上げませんが、ヒガシヤマの生活感がしっかり感じられたことにも瞠目しました。「吠える」暗唱のリフレインも、原語で話しているかのような美しいリズム。

参考資料。いやー昔は探せなかったあれこれが見つかるwebって有難い、26年という積み重ねを実感する。

・Howl by Allen Ginsberg┃Poetry Foundation
原語のテキストはこちら、ヒガシヤマが暗唱したのは「III」。

・Allen Ginsberg - I'm with you in Rockland / Scene from the movie "Howl" (2010) with James Franco.

音声が聴ける動画もあったので載せとく、ジェームズ・フランコ演じるギンズバーグ。

「僕らには理解があるんだ」。この言葉をだいじに掌で包みこむようなピーター(ヒガシヤマ)でした。忘れがたい。『吠える』を持っていかれたヒガシヤマは、これから「ジェリーと犬の物語」を何度も読み返し、やがて暗唱するのかな。教会が取り壊されたあと、その暗唱はどこで発表されるのだろう。

一方小林さん。以前から小林さんのジェリー(ルイケ)を観てみたいと思っており、今回のキャスティングはホント願ったり叶ったりで小躍りしたんです。なのでもうオープニング、暗闇に浮かび上がる小林さんの姿を観た時点で感極まりましたよね。眠そうな目をしていて、低いトーンで滑らかに話す。激情の発露が内側(自身)のように映り、そのことが観客の想像力を刺激する。動きがとても静かなところ、「実は妻には」のところで突然声をつまらせる等の言葉づかいは、過去のどの「ジェリー」にもないもので、なおかつとても「ジェリー」で、「ルイケ」だった。ひとの心に棲みつくジェリー。

印象としては、最初期のふたり芝居(+音楽家)を思い出す空気でした。いいものを観た。

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・『ウエアハウス』過去の上演記録はこちら

・稽古場レポート┃SPICE
・公開舞台稽古レポート┃SPICE
・平野良&小林且弥インタビュー┃SPICE

・「類家」ってそんなに珍しい名字だったのか…当然類家(心平)くんのことを思い出す訳ですけども

・おまけ、意味なく動画を張りたい。いや意味はある。この日『ウエアハウス』を観たあと渋谷に行きまして、ハチ公口を出た途端投げつけられる街の情報量に「うへえ」となる。1月30日に発表されたSQUAREPUSHER「TERMINAL SLAM」のMV観賞後、初めて渋谷に行ったということを意識してもいましたが、確かに「このノイズのなか無意識に情報の取捨選択が出来る」ヒトの能力ってすごいなあと感心しましたよね……


いやホント我に返るよ。脳って、人体ってすごいな!

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『ジョジョ・ラビット』@シネクイント スクリーン1


移動した渋谷で観たのはこちら。『ウエアハウス』に登場するヒガシヤマの娘は十歳で、「じゅっさいじゃないよ、じっさいが正しいんだよ。じっさい、じっさい」という。ジョジョはじっさい。十歳の目に映るファシズム、戦争、そして愛。

冒頭に書いたように、登場人物は英語を話す。街なかに張られているポスターやチラシはドイツ語で、終盤登場するアメリカ人はジョジョに向かって何か話すが、それは英語には聴こえなかった(ここ、確認したいなー)。「あー、ハリウッド(アメリカ)って」「無邪気に自動吹替って思えばいいのかなー」「いやしかし、アメリカは文化の盗用に厳しいのに……それと言語を奪うことの違いとは」「『ラストエンペラー』もそうだったけど、あれから何年経っているか……」「マオリ系ユダヤ人(出身はニュージーランド)であるタイカ・ワイティティ監督の意図は………」などとその違和感に考え込んでしまったが、今作は「こどもの見る世界」なので、その矛盾や荒唐無稽さを気にするのは野暮なのかもしれない。前述のアメリカ兵の声も、ジョジョにはああ聴こえたのだろう。

実際、こども目線だからこその省略が効果的でもある。余計な説明がない。ナチスの制服はかっこいい、親に反抗するのはかっこいい、戦争はかっこいい。ともだちは心のなかのヒトラー。キャンプ楽しい、本を燃やすの楽しい。ウェス・アンダーソンの映画のようにカラフルでかわいらしく、しかし強烈な毒を含むシーンの数々。こどもの目線は無邪気で残酷で(あの「ネイサンの殺し方」!)、スポンジのように差別を常識として吸い込む。顔に傷がついてしまった自分のことを、不良品の出来損ないだと思い悩む。しかし、だ。

ウサギを殺すなんていやだな。手榴弾投げるの……楽しい? お母さんがあまり家にいないけど、お父さんの分もいろいろやることがあるのだろう。角が生えていると思っていたユダヤ人は自分やお母さんと変わらない見た目だったし、「交渉」に応じてくれるようだ。そして彼女は僕の知らないことを知っている。スポンジのようだからこそ、その解消も早い。少年は自分のなかに生じた疑問と向き合い、どちらがおかしいか判断出来るようになる。靴紐を結べるようになり、彼女の靴紐を結んであげる。

たまたま手にしたフリペで、ロージーがどうなるかネタバレしているレヴューを読んでしまった(靴の描写だけだったが……あの時代ドイツで何が行われているか多少なりとも知っているひとは、その一文が何を意味するのかは容易に判断出来てしまうと思うのだが)ので覚悟していた。靴紐を結べないジョジョが、おしゃれなお母さんの靴を見る度、胸がうずいた。広場を見下ろす屋根の窓がひとの目のように見える、という演出も見事。


この窓の奥には多くの住人がいて、ジョジョを見つめていたのだ。それを窓の描写だけで見せる。ジョジョを守ろうとした大人たちのふるまいは、彼にとってかけがえのない足跡となる。そんな大人たちであるスカーレット・ヨハンソン、サム・ロックウェルの「粋」、素晴らしかった。

初っ端にThe Beatles「I Want To Hold Your Hand」=「Komm gib mir deine Hand」が、エンディングにはDavid Bowieの「Heroes」=「Helden」が流れる。どちらもドイツ語で唄われたヴァージョンだ。ステップのリズムが高鳴る、静かに喜びがわきあがる。平和の象徴として、当時にはなかったビートルズ、ボウイの音楽が響きわたる。失ったものは大きい。しかしこどもたちは踊る。前に進む。

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・ドイツ外務省は、何故デヴィッド・ボウイに感謝をしたのか?┃BARKS
・映画『ジョジョ・ラビット』をより楽しむための音楽ガイド」┃高橋芳朗の洋楽コラム

・鉄くずを集めたり、紙のようなものでつくられた服を着たり。日本と同じように(規模は違うかもしれないが)物資不足だったんだなあ。ドイツのこういう描写は今迄あまり観たことがなかったので新鮮でもあった