初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2016年04月30日(土)
『헤드윅(HEDWIG and the ANGRY INCH -New Makeup-)』

『헤드윅(HEDWIG and the ANGRY INCH -New Makeup-)』@弘益大大学路アートセンター 大劇場

2005年の初演以来、毎年のように(上演されなかった年は2010年と2015年のみ)キャストを変え上演され続けている韓国版『ヘドウィグ』。本場ブロードウェイの上演システムを継承し、独自のものとして発展させている韓国ミュージカル界の質の高さ、層の厚さが感じられます。ロングランにより、数々のスターも誕生しました。

ブロードウェイでは2014年に上演されたリバイバル版が、その年のトニー賞ミュージカル部門リバイバル賞、主演男優賞(『ゴーン・ガール』の怪演も記憶に新しいニール・パトリック・ハリス)を受賞しました。これを受け、演出ソン・ジウン、音楽監督イ・ジュンのもと、かつての“レジェンド”たちと新たなチャレンジャーを迎えた韓国版“New Makeup”上演が決定。と言う訳で観て来ましたよ。客入れで流れるルー・リードの「Walk On The Wild Side」を聴き乍ら開演を待つ。日本版のヘドウィグ、映画のヘドウィグを思い浮かべる。慌ただしくも豊かな時間。

当日のキャストはこちら。


(クリックすると拡大します)


ヘドウィグ=チョ・ジョンソク、イツァーク(イツハク)=ソムン・タク。06、08、11年にヘドウィグを演じ、「“ポドウィグ(色白という意味の韓国語ポヤッタ+ヘドウィグ)”」の愛称で親しまれたジョンソクくんは五年ぶり、四度目の登板。タクさんは2008年の日本上演版(鈴木勝秀演出)で山本耕史ヘドウィグのパートナーも務めた方です。当時の様子はこちら。
・1回目
・2回目
・ツアーファイナル
・ガラその1
・ガラその2
ガラにはジョン・キャメロン・ミッチェルも出演しました。

こちらにも書いたように、ジョンソクヘド×タクイツァークのペアが登場したのは開幕から二ヶ月近く経ってから。4月27日が初日で、私が観た日はまだ三公演目でした。しかしリハは重ねられていたのでしょう、もう何年も共演していたかのようなコンビネーション。韓国迄ぎでよがっだ…このペアの登場を待っててよがっだ……!!!

“New Makeup”は物語の設定も若干変わっています(後述リンクに詳細)。トミーがタイムズスクエアでコンサートを行うことになり、彼の“ストーキングツアー”をしているヘドウィグもブロードウェイへやってくる。興行が振るわず閉幕した『Junk Yard』の上演劇場から撤収前日一日だけ使用許可がおり、公演のセットが残ったままのステージでヘドウィグは一世一代のライヴを打つ……。設定同様上演劇場も、これ迄の300〜400席から700席のキャパにグレードアップされました。プロセニアムをしっかり備えた劇場らしい劇場で、二階席迄あります。しかしステージと客席が近く感じられる。イツァークのコールを受け、専用カメラマンをひきつれ客席後方から登場したヘドウィグが通路を練り歩く。カメラの映像はステージ後方に映し出される。アイラインとグリッターで彩られたヘドウィグの誇りに満ちた顔、その臨場感と言ったら!

この映像使いの演出は随所に効果を発揮していた。『Junk Yard』の舞台セットは、タイトル通り廃車置場(美術:キム・テヨン)。実物大…というより実物だったのではないだろうか、舞台後方を埋め尽くすように積み上げられた数多の廃車を、ハンディカメラによるライヴ映像、プロジェクションマッピング仕様によるイメージ映像が華やかに彩る。ステージに置きっぱなしになったトレイラーハウスはハンセルと母が暮らした部屋、アメリカへ渡ったあとの孤独な部屋、トミーとヘドウィグが過ごした部屋へと姿を変える。自動販売機のコーラはヘドウィグの喉を潤し、観客へと撒き散らされる。役目を終えたステージが、ヘドウィグたちにより甦る。ピンスポットが描く弧も美しく、ライティングも絵画のよう。

面白かったのが自動販売機。ペプシのロゴ入りなんだけど、何故かコカコーラが出てくる。プログラムに載っていたデザイン画はコカコーラのロゴだったんだけど、何か理由があるのかな? ジョンソクくんも「ペプシなのにコカコーラが出てきたわ〜」と言っていた(笑)。ちなみにこのコーラ缶は観客へプレゼント。ステージにあげて、立ち位置指示していじってハグして客席から悲鳴があがってました(笑)。カーウォッシュに隈取りハンカチ争奪戦等、ヘドウィグの客いじりは毎回あるもんですが、当たらなくてよかったと心底思いましたよ……言葉が通じないからしどろもどろになって芝居の流れを止めてしまうよ! そんなん大顰蹙だよ!

そう、韓国語は簡単な受け応えしか判らないので、過去観たヘドの記憶と予習した設定をたぐり寄せながら観ていた訳ですが、アドリブが出るとお手上げなところもあり。しかし観客の反応もヴィヴィッドで、ドカンドカン受けてたので一緒になって笑ったりしてました(…)。雰囲気は外タレのコンサートと変わらないので、待ってましたのナンバーが始まれば踊るし、拍手をするし、歓声を飛ばす。音響はゴージャスで、ロックバンドのホールコンサートと変わらない。演奏もアレンジが変わっている。特に「Sugar Daddy」が4ビートになっていたのには驚いた。前ヴァージョンの軽快さから、一歩一歩力強く進む。「Wig In a Box」はシンガロングタイム。台詞も歌詞も韓国語、「Midnight Radio」の“Lift up your hands”も韓国語で唄われたけど、自然と手は空へと向かう。

終盤の「Wicked Little Town」辺りから相当やばくて(自分が)、もうずっと泣いてた。まあ隣のお兄さんもぐすぐす鼻すすってたから、そんな観客はあちこちにいたでしょう。ブラから取り出されたトマト、額の十字。衣装を脱ぎ捨てたヘドウィグがトミーへ姿を変え、手渡されたウィッグを愛おしそうに抱きしめたイツァークが客席通路を駆けぬける。黒づくめのビスチェとロマンティックチュチュに身を包み、再びステージへと現れたイツァークとトミーが掌を合わせる。イツァークが、トミーが、そしてヘドウィグが。それぞれの物語がひとつになる。「カタワレを見付けた!」と思う一瞬から間髪を入れず訪れる孤独。トミーはひとりドアの向こう側へと消える。闇が降りる。歓声と拍手が後を追う。誰もがひとりだ。ひとりきりの長い、長い時間。

カタワレは永遠に探し続けるもの、出逢えるのはほんの一瞬。しかし確かに起こったこと。全ての公演をワンナイトオンリーにする、キャストとスタッフに感謝しきり。忘れられない、忘れたくない時間。スタンディングオベーション、続けてアンコール。精一杯の拍手を贈る。

ジョンソクヘドはとってもキュート。そしてホントに色白の肌。照明で輪郭がとびそう、秋田県人会か(川島道行、七尾茂大、トモ平田が所属しています:内輪受け)。舞台に際し体重も落としたそうでスレンダー、華奢なベリーチェーンが映える腰まわり。決して背は高くないのに腕と脚が長く、ヒールブーツも相俟って大きく見える。あと仕草がな…もう下ネタのときも愛らしいよな……ガハハハって笑ったりコーラ飲んでゲップしたり、それもひっくるめてかわいいよ……。歌はテクニカルでありパワフル、エモーショナル。ポドウィグに会いにきた愛ある観客とのやりとりもかわいらしい。そんなかわいらしい子がラストシーンでは孤高の輝きを放ちます。瞬きするのも惜しかった、なのに視界がぼやけたのは、まあ、仕方がないよ…だってあまりにも素晴らしくて、涙がとまらなかったんだもの。うわーん会えて嬉しいーそしていつかまた会いたいー!!!

「イツハクはソムンタクで見なさい!」とヘド好きの間で言われているらしいタクさんとは約八年ぶりの再会。貫禄! ロックシンガー! 強いイツァーク! ヘドとのやりとりもかわいいやら不憫やら夫婦漫才やら拗ねたり包容力あったりで、がっごよがっだ……惚れる…惚れまくる……あー彼女が唄ってるライヴCDもほしかったよ、誰がヘドの盤に入ってるんだろう。山本ヘドのサントラは出ていないからなあ。日本で上演されたヘドのサントラって三上博史版しか出ていないんだよね。それにしても八年聴いていなかったのに、彼女の声のコーラス、シャウト、メロディがしっかり記憶に焼き付いていたことに自分でも驚くやら嬉しいやら。第一声から「あの声だーーー!!!」と感極まりましたもん。自分のなかではイツァークは彼女の声だ。ちなみにヒゲでリーゼントの扮装だとチャ・スンウォンに見えました。てことはオクイさんにも似てるってことだろうか(笑)。

夜の街を歩いて帰りたくなった。山本ヘドの初日も、歌舞伎町のFACE(元LIQUIDROOM)から歩いて帰ったな。この日も道さえ知っていれば歩いて帰ってたんだけどな。宿の最寄り駅に降りたあと、随分遠まわりして帰った。夜空を見上げる。誰もがひとり。でも目にする世界は、ときどき重なる。

-----

その他関連記事等。

・조정석 (Cho jung-seok), 헤드윅 (HEDWIG NEW MAKEUP) 개별영상

ジョンソクくんver.のトレイラー

・Hedwig: New Makeup|Time Out
・チョ・ジョンソク、「『ヘドウィグ』40歳を過ぎても演じたい作品」|もっと! コリア

・excite翻訳:「私自身をさらに愛することになる作品」、ミュージカル『ヘドウィグ』
新ヴァージョン上演を記念して開催された、映画版上映会とスペシャルGV(Guest Visit)の様子。ジョンソクくんと音楽監督イ・ジュンがゲスト。
ジュン「まずサウンドに対する意地を捨てた。パンクなロックなサウンドが好きで固執してきたけど、ブロードウェイではクリーンとモダンなサウンドを追求していた。帰ってきて既存の方式を完全に変え、舞台の上のアンプとモニターをみななくした。実際演奏するそのままの声を観客に伝えようと」
ジョンソク「大劇場で、1階と2階が調和するよう意志を疎通することができるか非常に悩んだ」「以前はヘドウィグの孤独な、一人で残された悲しみにフォーカスを合わせたとすれば、今は美しく退場して拍手を受けることができるヘドウィグを見せたい」

・[뮤지컬 코멘터리] 쓸모 다한 폐차 같은 인생…무대로 읽는 대극장 ‘헤드윅’
・Google翻訳:無駄極めた廃車のような人生…舞台で読む大劇場『ヘドウィグ』|キム・テヨン舞台デザイナーに聞く主要シーンの裏話
新ヴァージョンの美術コンセプト等。あーやっぱり実際の車を使ってた! 自販機は最初のプランではトイレのドアだったとのこと。コカがペプシになったのは青が使える色だったからってことかな?

・조승우-변요한 ‘헤드윅: 뉴 메이크업’ 무엇이 달라졌나…8일 티켓예매 개시|10asia
・Team.Jさんによる翻訳(有難うございます!):チョ・スンウ-ビョン・ヨハン『ヘドウィグ:ニューメーキャップ』何が変わったのか…8日、チケット前売り開始
新ヴァージョンの設定紹介等

・[김문석의 무대VIEW] ‘헤드윅: 뉴 메이컵’ 원작의 맛을 살린 조정석 vs 자유로운 무대 완성한 조승우 - 스포츠경향 - 生生 스포츠스
・Google翻訳:[キムムンソクの舞台VIEW]「ヘドウィグ:ニューメイク」原作の味を生かしたチョ・ジョンソクvs自由舞台完成したチョ・スンウ
・조드윅 vs. 뽀드윅…아, 어쩌란 말인가요|네이버 뉴스
・Team.Jさんによる翻訳(有難うございます!):チョドウィグvs.ポドウィグ...ああ、どうしろと言うのでしょう
これらの記事を読むとチョ・スンウのヘドも観たくなりますね。スンウさん、『オケピ』のコンダクターとして当初名前があがってたんだよなあ

・excite翻訳:チョン・ムンソン、こういう「ヘドウィグ」もある…悲しい拍手の力説
緊張のあまり段取りを忘れたムンソンさんに、客席にいたジョンソクくんとスンウさんがジェスチャーでヒントをくれたというエピソード。ムンソンさんにとっては悔しい初日だっただろうけど、いい話だったので

・Hedwig and the Angry Inch’ Stars Neil Patrick Harris - The New York Times
・10 Amazing Moments From Neil Patrick Harris’ “Hedwig And The Angry Inch” Tony Awards Performance
2014年、ブロードウェイ版



2016年04月16日(土)
『ボーダーライン』『アルカディア』

『ボーダーライン』@新宿ピカデリー シアター8

おおお、これはリピートしたい…ひっかかる部分もあるのだが、それを凌駕してあまりある魅力に溢れる作品。

原題は『Sicario』。本編冒頭にスペイン語であるこの単語の語源と意味が説明される。このタイトルは本編終了後、もう一度スクリーンに映し出される。静かに、大きく。オープニングとエンディングでは、この単語の重みが一段階違う。「Sicario」が誰のことだったのか、何故その人物は「Sicario」たりえたのかが判明しているからだ。そういう意味ではサスペンスの側面もある。観客は主人公であるFBI捜査官と同様、その内容や真意がわからぬまま作戦の渦中に放り込まれる。自分をスカウトした人物、一緒に行動する人物がどこに所属していて、どこからの命令を受け行動しているかを知らないまま、命懸けの業務をこなさなければならない。次第に彼女は苛立っていく。ここで邦題の『ボーダーライン』を思い出す。彼女は自分たち同様、普通の人間なのだ。彼女をスカウトした側の人間はラインを越える。真実を知ったとしても、彼女はそのラインを踏み越えることが出来ない。原題と邦題、どちらも作品に深みを与える言葉の選択だと思う。両方を知ることが出来たのは、日本で観てよかったと思えること。

主人公は何故スカウトされたか。それは彼女の所属する機関が作戦にとって隠れ蓑、あるいは方便として必要だったからだ。誘拐即応班を指揮する捜査官として彼女は評価されているが、部下を亡くし、自身も怪我をする。自分の仕事に誇りと使命感を持っているが、武装して危険な現場に出向く末端業務だともどこかで思っている。スカウトされた後も自分が全く同じように上層から利用されている、ということに気付いたときの彼女の無力感はいかばかりか。

そこでひっかかる部分。このストーリー自体がキャスティングにも影響を及ぼしているように見えてしまうのだ。コンサルタントを演じるベニシオ・デル・トロが影の主役と言ってもいい重要な人物を演じている。実際ストーリーが進むにつれ、彼の存在感が増す。トップクレジットはFBI捜査官を演じるエミリー・ブラントだが、観終わってみるとそれはデルトロの正体をカモフラージュするためのものに思えてしまう。そしてその「作戦」はうまくいっている。

だからといってブラントは損な役まわりだったとは思わない。スカウト時の面接シーンの「結婚は、子供は」と言う質問は、危険な任務に独断で志願出来るかどうかを確認するためのもので、性別関係なく必要な事項だろう。デルトロが彼女にかける言葉「たいせつなひとに似ている」は思わせぶりだが、その「たいせつなひと」が誰を指すのか終盤に明かされると、ふたりの間に恋愛とは違う、しかし歳の離れた男女間に生まれた感情の交錯を示唆する重要な台詞になっていることが解る。脚本を書いたテイラー・シェリダンは制作側から主人公を男性にするよう提案されたが、首を縦に振らなかったそうだ。だいじなものを失い、その引き換えに手にしたような仕事を淡々と遂行する男性と、男性社会で孤独に陥りそうになり乍らも奮闘する女性の間に生まれる引力。あの余韻は忘れがたい。

「ボーダーライン」を残らず越えたのはデルトロ演じるコンサルタントだけだ。彼だけがトンネルの向こう側へ行く。法は当然、国境も、善悪も、モラルも踏み越える。主人公は彼によって、ラインを越えることを阻止される。去っていく彼を見送る彼女は、まるで捨てられた子供のように映る。ストーリーを横断する、メキシコのとある家族との対比を思う。あの少年と主人公がこの先出会うことはあるだろうか? コンサルタントの忠告通り「ちいさな街へ行け」ば、その人生は交錯することはないだろう。そしてそうあってほしい―ふたりは出会わないでほしい―と思う。

デルトロがとにかくすごい。あてがきだったそうだが、台詞やト書きには示されていないであろう部分の掘り下げ、演じる人物への潜り込みが見事。謎めいた登場、任務に赴く前にジャケットを丁寧にたたむ習慣、非情極まりない襲撃と拷問、移民に接するときの丁寧で穏やかな態度。彼が何故「幽霊」と呼ばれているのか、それは今の仕事の内容だけが理由ではない。彼はある意味死んでいるのだ。それらがものいわぬ表情や仕草から静かに伝わる。酸いも甘いもベニシオ・デル・トロ。彼の代表作である『トラフィック』と表裏一体の役だった。『ボーダーライン』が黒味の灰色、『トラフィック』は白味の灰色。どちらの行く末にも色濃い「死」という黒。特別捜査官を演じたジョシュ・ブローリンとの、利害の一致のみで築かれた信頼関係の描写もよかった。飄々と、ユーモアを忘れないブローリンの人物造形も魅力的。このコンビ、『インヒアレント・ヴァイス』からのふたりだったもんでちょっと微笑ましかった。

内容は違うが、『ゼロ・ダーク・サーティ』を思い出す空気感。プロ集団の仕事振りを撮る臨場感あふれるカメラ。移送を上空からひたすら追う緊張感に満ちた空撮。緊張感と同時に映し出される自然の美しさ…砂塵にぼやける視界、夕暮れの色彩。画作りにはアレックス・ウェブ(後述)の写真が参考にされたとのこと。人間が地上でどんな血なまぐさい戦いを繰り広げていても、自然には関係がない。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ。あの『ブレードランナー』続編のメガホンをとっているとのことで、俄然期待が高まった。撮影は『ノーカントリー』『007 スカイフォール』のロジャー・ディーキンス。ヨハン・ヨハンソンの音楽も素晴らしい。音響も適材適所の迫力なので映画館で観るのがおすすめです。やーなんとか時間見付けてリピートしたい。

-----

・映画『ボーダーライン』メイキング映像


・Alex Webb // Rebecca Norris Webb // Photographs
アレックス・ウェブはマグナムメンバーでもある。こちらの『MEXICO'S SOUTHERN BORDER』を観ると、ああ、このテイスト……! となります

・『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』オフィシャルサイト
メキシコ麻薬戦争における各組織の紹介と年表。twitterで教えて頂きました、参考になる。『トラフィック』が公開された時代から勢力地図がかなり変化していることに気付き、麻薬戦争の終結など夢のまた夢だな、と暗澹とした気分になることうけあいです

・そういえば『トラフィック』では野球だったけど『ボーダーライン』ではサッカーだったね。たまたまかもしれないけどここにもちょっと時代関係あるかな? と思ったり。野球はグローブとか、道具がプレイヤーの人数分必要だけどサッカーはボールひとつあればいい。経済状況がより逼迫していることを暗示しているのかなと

・なぜ彼らは残虐行為ができるのか? メキシコ犯罪組織との戦い描く『ボーダーライン』が問うもの|Real Sound
・一大ブーム到来!?  中南米ドラッグ・カルテル作品が量産されるようになった理由|Real Sound
『エスコバル/楽園の掟』間に合わなかったよ…上映館少なすぎるよう(泣)二番館かソフト化を狙います

・ところで今回初めて、自分はサイズの揃った車が縦列で、車間キツキツでブンブン走るシーンを観るのが好きなんだわと自覚した。車がずんぐりむっくりだとなおよい。そーいえば『ミニミニ大作戦』も大好きだったわ……
・ちなみに今作で車間を空けないのは「あんな状況で呑気に車間なんか空けてたら即割り込みされてチームが分断、あっという間に襲撃される」からだそうです。成程……

****************

(20160523追記)

『アルカディア』@シアターコクーン

長文書きそびれたので、twitterに落としたもののリンクを張っておきます。

1
2
3
4
5
6

・優雅に、瑞々しく、難解は踊る。シス・カンパニー『アルカディア』|徳永京子|note
謎を観る、過去を追う、ということに関しての言語化が素晴らしいなと…プロの書き手によるレヴューを読める嬉しさよ



2016年04月14日(木)
『イントレランスの祭』

KOKAMI@network vol.14『イントレランスの祭』@スペース・ゼロ

久し振りのKOKAMI@network。スペース・ゼロも久し振り。イントレランスとは不寛容のこと。

差別は何から生まれるのか。デマの発信源はどこか、それが拡散される仕組みとは。結局のところ「人類は差別が大好き」で、対象者を貶めるために差別し、嘘をつく。自分が優位に立ちたいという承認欲求の顕れは、自分を守るための手段にもなる。理解しあえないことを憎むのではなく、違いとして受け入れることは出来ないのか? 鴻上尚史はそれらをしっかり見据え、しっかり書く。目をそらさず、何故そういうことをするのか、何故そうなるのかを辛抱強く描く。差別する側もされる側も、同じように見つめる。彼らと同じように悩み、苦しむ。

差別の対象は宇宙人で、ファンタジーの味付けがある。しかし登場人物たちが直面する問題は、現在の日本と全く変わりがない。ヘイトデモはもはや新宿や渋谷、銀座でよく見かける光景だ。証拠捏造、監視社会。秩序を守るための法がザルに見える。人種、性別、職業、収入。あらゆることが憎しみの対象になる。差別されていた側がカウンターとして放つ差別、より弱いものへの皺寄せとしての差別。連鎖は続く。どれも見たことがあり、どれも身に覚えがある。差別する側も、される側も。「私は違う」と言い切れるひとはいない、絶対に。「人類は差別が大好き」、それは否定しようのない事実だ。差別はきっとなくならない。ではその差別をどう受け入れ、断絶せずに共生していくか、それを考えられるのが人類ではないだろうか。

誰もが脛に傷持つ者だが、その根源が恋愛だったりするところは鴻上さんならではだなと思った。彼を自分のものにしたい、彼女に自分だけを見つめてほしい。しかしつきつめればそうかもなあ、と思う。ひととひととの感情のもつれは、一度こじれるとなかなか修復出来ない。嫉妬と猜疑心の力は巨大だ。個人の問題が社会に及ぼす影響は、実はとても大きい。演じる役者はきつかろうと思う。自分のなかにはないと思っていたどす黒い感情を掘り起こしたり、自分が理解出来ないと思っていたことを表現出来る迄学習しなければならない。しかしそこにユーモアや悲哀を見出し、表現するのも役者の仕事だ。出演者は皆素晴らしかった。

宇宙人が差別されている地球人の告白を聞く場面がある。その人物は「あまりにもつらい内容なのでミュージカル仕立てで話す」という。痛みに満ちた差別体験は、歌と踊りにショウアップされる。カラーガードを応用したフラッグアクションは、戦意高揚を煽る行為と紙一重。旗を振るとはどういうことか、ハッとさせられる。エンタテイメントの役割を宣言するかのような、これらのシーンは出色だった。

河野丈洋による劇伴が見事。ミュージカルの楽曲、ラップ部分のバックトラックもいい。NEWS ZEROのオープニング曲を踏襲したような番組テーマ曲も絶妙。演技がダンスへ、ダンスが祝祭空間へ誘う川崎悦子の振付、ダンスと乱闘が交錯する藤榮史哉によるアクションも見応えがある。ちょっとしたタイミングのズレで演者に旗が直撃しそう、イントレを飛びまわるようなシーンもあり、それだけ迫力のあるものが観られるのだが、千秋楽迄事故のないことを祈る。花束から生花の匂いが漂う。終盤舞い散る花びらは造花だがはなやかな彩りで、ひとつひとつ綺麗な花びらの形をしている。勿論紙吹雪でも構わないのだが、こうした丁寧な仕事は、受けとる側にとってとても大きな意味を持つ。鴻上組、流石のスタッフワーク。

久ヶ沢徹が鴻上尚史作品に出るというのが新鮮で今回観劇を決めたのですが、二列目ど真ん中といういい席でして……ジャニーズのひとをこんなに近くで観ることは二度とないであろうという運使い切った感すごい。風間俊介の演技力は過去の作品で思い知っていますが、今回ダンスも堪能出来て楽しかった。キレッキレですがな。あとテンパってくる(役が。彼が演じる人物はよくテンパる。そりゃそうだよね、あの状況……)と寄り目になるというか左右の視線がバラバラになり、歌舞伎のにらみのような凄みがあった。これは間近で観られてよかった。

風間さんが演じる主人公は、とても身近な存在に思える。自分の才能に自信が持てない、認められない焦燥を周囲の無理解とすりかえる、しかしそうではないことにも気付いている。そして彼女を愛する心に嘘はない。そんな彼が仕掛ける一世一代の大勝負は、大きな痛みと犠牲を伴う。彼の秘密を知っているのはひとりだけだ。身近な存在に思えるからこそ、あなたのしたことを知っているひとは他にもいる、ここにいる、と声をかけたくなる。それが出来ないから、観客は描かれたことをしっかり受けとめ、考え続けるという思いを胸に劇場をあとにする。そういった媒介を果たせる稀有な役者だと改めて思う。

真顔で旗を振り踊る久ヶ沢さんは期待通りの怪演、昨年くらいからお初の演出家との仕事が増えているようなので、今後も期待。いろんな意味で双子のような岡本玲/藤田記子のユーモアを交えた強さ、弱さも忘れがたい。福田転球はあてがきかと思わせる迫力。『夫婦』の小岩井役が強烈に印象的だった田村健太郎が、未来と希望を担う役を好演。彼であの役を観られてよかった。

終盤揺れがきて我に返る。周囲を見まわす観客があちこち、ちょっと集中が切れる。直後転換に入り、舞台から役者がハケたので動揺は拡がらず、最後の場も滞りなく進み無事終演。観劇中に地震に遭ったの久し振りだな…と帰宅すると、熊本で大地震が起きていた。差別やデマ、不寛容の在り処について考える。虚構と現実の場は地続きだなとつくづく思う。

-----

・スペース・ゼロ行ったの、じてキンの『ダイアナ牧師の大穴』以来ではないか…と調べてみたら14年前でしたよヒー。トイレの場所も忘れてるくらいでした。『全労済演劇フェスティバル』は今は『文化フェスティバル』で、より広範囲なジャンルを扱っているようでした。地下では寄席をやっておりました

・『ダイアナ牧師の大穴』、観たときはまだ(観て)読んでなかったんだけど、今思うと『オスカーとルシンダ』に通じるものがあるなあ。信仰とギャンブル。人生はギャンブル。いちばん好きな映画



2016年04月10日(日)
『たとえば野に咲く花のように』+お菓子の話を少し

鄭義信 三部作 Vol.2『たとえば野に咲く花のように』@新国立劇場 小劇場

『鄭義信 三部作』第二弾。三部作中唯一、鈴木裕美が演出(他の二作は演出も鄭さん)。初演は新国立劇場開場10周年記念フェスティバル公演、『三つの悲劇―ギリシャから』中の一作として上演されたもので、ギリシャ悲劇『アンドロマケ』が下敷きになっています。

舞台は1950年代のF県H港。朝鮮戦争が始まり特需景気にうかれつつも、米軍の指揮下、機雷除去に駆り出される海上保安官たち。後方支援と言いつつも、事実上の前線基地だ。街を出ていく者、待つ者、奪う者、失う者。恋愛と時代に翻弄されるちいさな街のちいさな者たち。野に咲く花、ちいさく強い花。

『パーマ屋スミレ』同様、序盤は博多(九州)弁に耳がついていかず四苦八苦。九州出身の私ですらそうなので、こちらにずっとお住まいの方は相当あたふたするんじゃないでしょうか。しかしじきに慣れ、激しい言い合いをする登場人物たちに「せからしかー!」と怒鳴りたくなってきます(笑)。ホンも演出もエネルギッシュで、登場人物たちはしょっちゅう怒鳴りあいをしている。殴りあいもしばしば。鄭さんが自称する「吉本新喜劇」調、裕美さんが得意とするドタバタ悲喜劇。この過剰を鬱陶しいと思うか、ともに没頭するかで好みは分かれそう。個人的には楽しめました。満喜の弟が逮捕されたと知らせにくる少年が、動転のあまり状況をうまく伝えられない様子をジェスチャーゲームに見立てた演出には笑った。

戦争を起因として祖国をあとにした女性。原案であるギリシャ悲劇と照らし合わせ乍ら観ることも出来る。アンドロマケは満喜、ピュラスは康雄、ヘルミオネはあかね、そしてオレステスは直也。康雄が戦時中の極限状態で行ったことは彼の罪を重くするための後付けに感じ、あかねの常軌を逸した執着は原案の影響を感じる。しかし、満喜とその弟のようなひとたちは、現在でも世界のいたるところに存在する。まるで今回の再演のために加えられたかと錯覚する台詞は、勿論初演からあったものだ。「五十年後にはなくなっている」と言う登場人物の願いが戦後七十年を超えた今でも叶わないことに胸を衝かれる。作品の普遍を思う。普遍は無慈悲でもある。

最後の場面に現れる満喜の姿と、語られない康雄たちの行方。原案ではアンドロマケの行方は曖昧なフェイドアウトで、あとの三人の最期が明示されている。この反転には、希望を見出す余地がある。パンドラの匣に残った希望とは、人間の力ではどうすることも出来ない災厄に抗うための、想像力のことでもある。

登場人物中割を食ってる感もあるあかねの執着に、原因と依存の要素を加えたところに鄭さんの優しさが感じられた。それが明かされる終盤迄はキツかったー。嫉妬に燃え狂う者は周囲を巻き込み消耗させる。恐ろしいし、正直関わりたくない。満喜とあかねが一緒に酒を酌み交わす場面にどれだけ救われたかわからない。ふたりが失ったものの大きさを感じさせるシーンだった。とにかく女性たちが強く、懐が深い。対して男性の「いかれぽんち」なこと! しかしそこに愛嬌や色気が滲み出る。鄭さんの作風でもあるが、にくたらしいわー(笑)。康雄も直也も哀れで格好いい。そんでまたそこに雨とか降らすし! ニクい!

そしてそのどちらにも属さないダンスホールの支配人は、『焼肉ドラゴン』で櫻井章喜が演じた人物にあたると考える。個人的に理想の人物で、こうありたい、と思わせる。超然とすら感じる優しさ。陽気の裏の悲しみを周囲は察知出来ないかもしれない。こうありたいし、そこに気付く者でありたい。康雄と満喜が話している店に入れず(自分の店なのにね)、外にぽつんと座って花びら占いをする支配人の姿はとても愛しかった。

満喜を演じたともさかりえ、舞台で観たの久々でしたが迫力ある女優さんになっていました。すごみすら感じた。声のトーンも素晴らしい。あの騒々しいやりとりのなかでもしっかり通り、つぶやくような声にも芯がある。台詞の核心が届く。そして満喜の同僚、池谷のぶえがちょーいい女。主張したいが彼女のいい女っぷりを最初に役に反映させたのはTHE SHAMPOO HATの『葡萄』だと思います! 赤堀さん有難う! 今回それを感じられる役で観られたのは嬉しい! 鄭さん裕美さん有難う! コメディエンヌとしてずば抜けている方だけど、こう言う色気のある人物でも沢山観たいですよ! 同じく同僚の小飯塚貴世江はかわいらしいことこの上ない。声もかわいくてなー! 一途でなー! かわいい声で真実をズバリと言い当てるしなー! あの声で語りかけられたからこそ満喜の弟も救われたよと言いたいくらいです。あかねを演じた村川絵梨は、前述したようにしんどい役柄。あのテンションを維持したまま演じ続けるのはたいへんだろうな…と思わせるが、それをふっとばす程にくらしい女性像をバッキリ演じてくれる。もはや安心感すらあった。「姐さん」と呼ばれているの、なんかわかる(後述インタビュー参照)。

山口馬木也のボケがよかったな…強くあらねばならないと社会から求められている男性の仮面が剥がれる瞬間、みたいなもの。満喜に思いを受け入れられたときの間抜け顔がかわいいこと甚だしかった。顔が濃い二枚目だから尚更ね(笑)。石田卓也は最も報われないと言うか可哀相な役をストイックに演じきる。ガッツポーズが一度目と二度目で全く違う意味合いに見える。これはせつなかった。もう人生修行です、て感じが全身から漂ってた…ふびんかわいい。妊婦をはっ倒したときにはおまえ許さんと思いましたが(役ですよ、役)。猪野学の愛嬌も素晴らしかったなー! すぐ脱ぐアホさ加減と恋するせつなさっぷりの塩梅が絶妙だったなー! しあわせになってくれよよよよよ。ともさかさんとガチンコを繰り広げた黄川田将也、件のジェスチャーゲームでいいアクセントになった吉井一肇も心に残る役者=登場人物。

初演からの続投は支配人を演じた大石継太のみ。続投にも頷けてしまうキャラクター。ずっとそうだけど、大石さんの笑顔って泣いてるようにも見えるんだよね。笑い声が泣き声にも聴こえるし。彼のような役者を舞台で見続けることが出来る、それはとても幸運なこと。
(20160414追記:初演で大石さんが演じたのは猪野さんが演じた役で、初演の支配人役は佐渡稔だそうです。失礼いたしました!)

どんなときにも物哀しく響く「Over The Rainbow」の流れる、やがてはさびれていくであろうダンスホール。瞼の奥に残像が浮かぶ。二村周作の美術も素敵でした。

あ、急に思い出した。ちくわの結婚指輪。爆笑とともに暗転していく劇場と言う光景のシュールさともども愛しいシーンだった。

-----

・稽古場レポート|THEATERCLIP
ワークショップの内容がちょっと紹介されていて面白い

・稽古場レポート 感激観劇レポ|おけぴネット
舞台写真沢山

・ともさかりえ×村川絵梨インタビュー|エンタステージ
馬木也さんのかわいみおもろみ、裕美さんの変わらぬ格好よさ潔さも語られております

・トレイラー


-----

・Sunday Bake Shop
今回の鄭義信三部作セット券を日曜日で揃えたのは、実は帰りにここでお菓子が買いたいと言う動機からなのだった。しかし先月、『焼肉ドラゴン』のときは観劇日がたまたまホワイトデーの前日だったため、焼け野原のように何もなかった。焼いた先から売れていったらしい。思わず「買えるものはありますか…?」と訊いてしまったよね……最後の焼きあがりを待ってちょっと買えた。毎回同じものがある訳ではないので、ギャンブルぽい面もあって楽しい。今回はいろいろ買えました。うれしい。来月も楽しみ。日曜日と水曜日にのみ営業している、おいしい焼き菓子のお店です



2016年04月09日(土)
『おとこたち』+蜷川さんのことを少し

ハイバイ『おとこたち』@東京芸術劇場 シアターイースト

初演からそう間をおかずの再演。岩井秀人が常日頃から仰っているように、再演は作品の強度、深度を増すためのものとも言える。観る側も同じ。

今回は演出の細やかさ、役者の巧さにつくづくヤラれた。二十代から八十代迄を口調、姿勢、髪の分け目を少し変えるだけで瞬時に演じ分ける。初演の感想にも書いたが、着こなしの変化(衣裳そのものに大きな変化は与えず、パンツの裾をクロップド丈にする)だけで幼児にもなる。経年変化は、突然腰が曲がったりと言ったような「いかにも」ではなく、ゆるやかに近づいてくる。ちょっとした段差につまづいたり、後ずさりしたときに思わずよろめいてしまったり。それら繊細な要素を、役者たちはさりげなく、丁寧に積み重ねていく。これが非常に効果的。本人の意識は若いままでも、身体はそうではないという表現も絶妙。冒頭の山田のモノローグが象徴的で、導入マジックとしても素晴らしい。そして自分は若いという意識から、結果的に命を落とすことになる鈴木の姿は、老いを受け入れることが難しい現代社会を映し出しているように思う。

そうした時間の経過を的確に表現し、観る側に伝える役者の力があるからこそ、演出も自由度が増す。台詞は初演よりシンプルになり(太郎と初対面の山田が「おまえ…!」という台詞もなくなっていた)観客への「ここから役が変わってますよ、年代が変わってますよ」という目配せが減らされている。これは不親切ではなく、観客の感覚を信用しているということだ。地続きの転換は、観客に一瞬の戸惑いと、続いてそれを理解することが出来る喜びをくれる。演劇の醍醐味でもある。

現実を冷徹に見つめる岩井さんは、同じ視線で現実への寛容も掘り起こす。なだらかな場面転換は人生そのもの。どこで選択を間違った? あのときどうすればよかった? そんなもの、あとになってわかることじゃないか。そのとき、そのときで対処していくしかない。幸せとは言えない最期を迎えた津川が歩く暗闇、その暗闇から見えた光が太郎へと続く道は映画的な場面転換でとても美しい。ともすればスピリチュアルな方向に行ってしまいそうな危うさがあるが、そこは装飾や説明を加えないことでいかようにも解釈出来るようにしてある。この「筆が滑らない」ところも岩井さんのすごみであるように思う。とても好きな場面。

松井周以外は初演からの続投(配役は岩井さんが演じた監督を平原テツが兼任、よって出演者は初演よりひとり少ない)。松井さんは『聖地』で劇作家として知り、役者で観たのは『遭難、』からだったが、まああそのにえにえだらだらした人物造形の素晴らしいこと。岩井さんもだが、青年団周辺の劇作家・演出家はなんでこうも役者としても優れているのかー。演じた森田という役はいろいろ解釈出来る人物で、いちばん人間というものの複雑さが表に出ているように思える。あれも好き、これも好き、のらりくらり、どっちつかず、あわよくば両方、その場しのぎ。それでも妻は彼と別れず、彼は妻の看病を献身的といってもいい様子で続ける。山田を施設に入れる手続きもしてくれる。八十代になった今、何気にいちばんたよりになっているとも言える。若い頃のツケ? 罪滅ぼし? 今更逃げられない? 仕方ない? そんな言葉もちらほら浮かぶ。若い頃遊んだともだちはもう山田しかいない。思い出すのは楽しい昔日。

「追い駆けて 追いかけても つかめない ものばかりさ 愛して 愛しても 近づく程 見えない」、物語の前半と後半でこうも違って聴こえるチャゲ&飛鳥の曲は、これから耳にする度にえぐられるのだろうな。そしてどんどん闇が増していく老いの場面に「(年金)ねばってドン!」とか入れて来るとこも岩井さんすげえと思いました。反射で笑った。苦しむなら、そこにオモシロを何がなんでも見付けよう。その滑稽さこそが人生、泣いて笑って忙しい。そのうち気付けば死後の世界。

-----

『悲劇喜劇』最新号(2016.5)
読み応えある。第三回ハヤカワ『悲劇喜劇』賞を受賞した『リチャード二世』特集からの、蜷川幸雄へのエールと言ってもいい内容で胸に迫るものがある。ここ数年で組んだ劇作家のエッセイがいちいち面白く、松井さんの書かれたエッセイがまたジーンとくるもので、昼間に観た『おとこたち』で丸出駄目男を演じていたひとと同一人物とは思えなくて素晴らしいと思いました(笑)

・で、そのエッセイに倉持裕さんが書いていたエピソード。蜷川さんが悪ぶって口にした「権力」は「環境」にも置き換えられる言葉で、それを手にするために長い時間どんだけ闘ってきたかって話ですよ。過去を知らないのは若さの特権かもしれないけど、そういう経緯を知ろうともせず蜷川さんを揶揄するひとだいきらい(いろいろ思いが噴出)

・井上尊晶や中越司のインタヴューが載っているのも嬉しい。そして他の誌面で目にしたことのなかった(確か)、『リチャード二世』での内田健司のエモい表情を捉えた舞台写真が載っていたのもよかったな。内田さんを揶揄するひともきらいなのよー!(再)

・と言う訳で『尺には尺を』も『蜷の綿』も、上演を心待ちにしています。松井さんの言うとおり、急がなくていい。でも、横町さんのことのようになるのは絶対に嫌