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2016年05月29日(日) ■ |
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『パーマ屋スミレ』 |
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鄭義信 三部作 Vol.3『パーマ屋スミレ』@新国立劇場 小劇場
『鄭義信 三部作』の最後を飾るのは、1960年代、東京オリンピックの翌年の物語。年代順だと『たとえば野に咲く花のように』『パーマ屋スミレ』『焼肉ドラゴン』で、何故その順で上演しなかったんだろう? という素朴な疑問も浮かびますが、三ヶ月連続で鄭さんが演出だとあまりにも過酷だからかしらという推測に落ち着きました。鈴木裕美演出の『たとえば~』を新国立で上演している間、『焼肉~』は地方公演に出かけていたしね。
入場して、まず美術(伊藤雅子)にほおお…とため息がもれる。初演でもそうだったが、具象で徹底的に作り込まれ、そこで暮らすひとたちの息遣いまで伝わってくるような集落。瞬時にして観客を1960年代の炭鉱の町へとつれていく。そして三部作連続上演の妙味かもしれない、『焼肉ドラゴン』の家屋と間取りが似通っていることに気付く。おそらく基盤は同じもので、流用されているものも多いだろう。ぐるぐるとループのように繰り返される歴史をなぞるような感覚に陥る。
初演から役者が替わったのは、成勲と英勲の兄弟のみ。村上淳演じる弟は優しく引っ込み思案、少年の面影を残すいい男っぷりで、こりゃー大吉も惚れるよね。手づくりマフラー巻いてあげてよ! と思わず大吉の心境にぐぐっとよりましたよね……(笑)。それはさておき、あの優しさはあ~この町では生きていけんな……という予感もまとっていてよかった。千葉哲也演じる兄=須美の夫はザネリ(@銀河鉄道の夜)ばりの意地悪っぷりで、それが九州男の意地と須美を思う気持ちのねじれから生じたものだとなかなか気付かせない巧さ。その意地っぱりな、情けなさっぷりが素晴らしかったです。あーホントにめんどくさい男ね~(ほめてる)!
そう、劇中の須美が「朝鮮人なのに九州女」と言われるように、男も朝鮮人なのに九州男だわなと九州出身としてしみじみ思いました。あのーここでちょっと話逸れますが、どこの出身でも、どの地方でも、いいとことわるいとこってあるでしょう。だけど九州のイメージってわるい面が大きくとりあげられているように感じるのは被害者意識かしらね……。いちいち「これだから九州の男は…」とか「やっぱり九州の女は…」て言われるとうるせーバーカよけいなお世話じゃって思うんじゃよー! 鄭さんは姫路育ちだそうなので(本人曰く姫路城の近所だったので「高級石垣朝鮮人集落育ち」・笑)九州にどんなイメージを持っているかは判らないけど、今作は九州人のいいとこもわるいとこも両方描いてくれてるのがよかったな。というか嬉しかったな。
と、三部作中唯一初演も観ていたので、今回再演を観ることによって新たに気付いたことや、2016年に改めて観ることで感じ入る箇所も多かった。「滑走路を作るために人手が…」って台詞を聴いて「ああ、これから彼らは『焼肉ドラゴン』の世界へ旅立つんだな」と思えたこと。二幕が始まるまえの口上にあったように、今作の事故のモデルとなっている三井三池炭鉱は熊本県側にも坑口があり、その熊本が今被災していること。
そして、演劇だからこそのマジック。大人になった大吉(大大吉)が追憶の風景に立っていること。
劇中、須美がパーマ屋を開く夢を打ち明けたのはふたりだけ。ひとりは甥の大吉。そして夫の成勲。故郷を離れ、ファッションデザイナーの夢を捨てた大大吉は、追憶のなかで須美と成勲の会話に立ち会う。大吉だけが知っていたその店名を須美が成勲に告白するとき、大大吉は須美とともに「パーマ屋スミレ」とささやくのだ。
大大吉が、このときの須美と成勲の会話を知るはずはない。この光景は、やがて大大吉が迎える臨終の床で見る走馬灯になるかもしれない。いや、それとも。
夢とあこがれ、祈りと幻。それらをこんな形で観ることが出来る。演劇の、舞台のこういうところに惚れている。それにしても大大吉を演じる酒向芳マジかっけー。髪がネタにされてますが、そんなんどうでもいいねーってくらいプロポーションがよく立ち姿が美しく、そして声が魅力的。ファッションデザイナーの夢が叶っていればどんなにか……と思ったが、大吉時代の私服と手づくりマフラーを見る限りどんなに…なっただろう……ね? と違う意味で我に返りましたが。こういうとこ鄭さんならではの笑いどころですね。
前回に増して魅力を感じたのは須美の姉(長女)役・根岸季衣。周囲をも明るくするその陽性、強さ。『焼肉ドラゴン』の呉信吉(櫻井章喜が演じた人物)、『たとえば野に咲く花のように』のダンスホールの支配人(大石継太が演じた人物)にあたる人物だな、と思う。つまり理想の人物です。こういう心持ちで生きたいわ……。須美と英勲をそぉ~っとふたりきりにさせるときの動作と表情、いたずらっ子みたい。かわいらしくて悶絶した。そして衣裳(前田文子)。華美な長女、派手ではないがセンスがよく、服をだいじに扱っている次女、質素極まりない三女。“三人姉妹”の職業だけでなく性格をも表すような、それぞれの服。
闘病中でもある南果歩を応援しているかのような空気が客席にあった。登場した瞬間ちいさな歓声があがる。それに応え「私は大丈夫」とでも言うかのように、南さんは声を張り、活発に動く。いよっ、座長! と大向こうをかけたくなるような熱演。カーテンコールの拍手は登場人物に贈ると同時に、その役を演じきる役者たちへのエールのように響いていました。
そうそう、ムラジュンはカーテンコールでも英勲だった。脚をひきずってる。蜷川さんの『四谷怪談』のとき、役にのめりこんで衣装のどてら着たまま家から稽古場に通ってたってエピソードを思い出した。少しふっくら(それでもほっそいが)していたのでホッとしたり。一時期心配になる程痩せてたからね……。大吉役の森田甘路にここぞとばかりに手づくりマフラー巻き付けられて(ヤッタネ大吉よかったね!)、照れくさそうにはにかんでました。
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その他。
・毎回言ってるが栗原直樹の擬闘まじかっけー
・七輪でイカ焼くシーン、ほんまもん焼いてるからすごいいい匂い。おなかがすく
・笑いとシリアス。両者が同居するのは作者の本意でもあるだろうが、そのバランスは難しいものだなと実感した回だった。水が飛び散る乱闘シーンがあるので、最前列の客にはビニールシートが配られている。該当シーンになったらこうするんですよ、と幕間に楽しいレクチャーがあった。二幕がはじまりそのシーンになったとき、一部の観客が爆笑した。兄弟が激しく乱闘し、水が散る度に何度も笑い声が起こった ・観たひとは判ると思いますが、とても笑えるシーンではないんです。むしろいちばん悲しいシーンかもしれない。私の隣席のひとは思いあまってか、笑い続ける集団を振り返りにらみつけていた。受け手の問題ではあるけれど、さじ加減って難しいなと思った
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月イチでSunday Bake Shopへ寄るのもひとまずおしまい。リュバーブのケーキすっごくおいしかった! 新国立劇場での次回の観劇は未定ですが、すっかり味をしめてしまった今、日曜日以外の選択肢が考えられません(笑)。
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2016年05月28日(土) ■ |
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『或る終焉』 |
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『或る終焉』@Bunkamura ル・シネマ1
『父の秘密』で2012年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリを受賞した、ミシェル・フランコ監督作品。このとき「ある視点」部門の審査委員長を務めていたのがティム・ロスで、その才能に惚れ込んだ彼が今作の製作総指揮と主演を引き受けたとのこと。祖母の死に立ち会った監督自身の体験に基づき描かれた、死を迎える患者と特別な関係を築く、終末期医療に携わる看護師の日々。プロットの段階では、主人公の看護師は女性だったそうだ。
回復の見込みのない患者にのみ接する日々。喪失の日々でもある。淡々と、しかし患者の求めていること、望んでいることを確実に汲みとり、信頼を得る。患者は次第に心を開き、家族にすら話さないことを話し、家族に頼めないことを頼む。ふたりだけの秘密が増えていく。家族たちはそんなふたりの関係に戸惑い、嫉妬に似た感情すら抱く。死から死へと渡り歩くような緩和ケア従事者は、彼ら自身が患者に依存しているようにすら感じさえする。ただひたすら患者が安穏に死を迎えられるよう、真摯に働く。他人と接することを極力避け、その場限りの対話のために嘘をつき、その思い出を積み重ねる。憂鬱の層も積み重なる。
台詞は最小限、説明描写はない、音楽もない。少ない言葉のやりとりから、看護師と患者の関係の変化、看護師の過去と現在が少しずつ浮かび上がる。観客は耳をすまし、目をこらす。かすかな生活音から彼らが暮らす場所や環境を感じとり、落ち着いた部屋の雰囲気や近所の風景から、彼らの社会的立場を推測する。ティムを筆頭に、多くを語らぬ演者たちの静かな演技は、雄弁な表情と仕草により観客を惹きつけ、緊張感を持続したまま94分を走りきる。長回しが多く、「このシーンちょっと長いような…」と思い始めるギリギリにシーンが変わる。看護師が尾行している(、と思わせられるようなカメラの追い方なのだ)女性の正体が判明する迄の時間が長かったり、他人の家に「兄弟が建築した家なんだ」とあがりこむ彼の異常性を示したりと、まるで観客を手玉にとるような展開に少し違和感があったが、その狙いはラストシーンに繋がるものだ。
患者のケアは力仕事だ。重い身体を抱えて浴槽へ運んだり、寝返りをうたせたり。看護師は体力作りの一環としてなのか、ランニングを欠かさない。ジムのランニングマシーンで走っていたが、事務所を辞めてからは外を走る。引っ越しもしたし、とさほど気にならなかったこの変化が、ラストシーンに大きな意味を持つことになる。偶然か、それとも意図的か。衝撃的とも言えるこの幕切れにバイヤーたちは驚かされたそうだが、「驚く」という前知識を入れていたのにも関わらずそのショックは大きいものだった。ネタバレ掲示板の案内が映画館にあり、その入室パスワードからも、ちょっとした謎解きのような余韻が残る。しかしこの映画は「衝撃のラストシーン!」と煽るようなものでは決してない。ひとの命をどう扱うか、個人の生死を他者がどう解釈するか。扱いが難しい、やっかいな作品とも言える。原題は『CHRONIC』。看護師が常に抱える症状でもあり、心の動きでもある。
ティム、素晴らしかったなー。饒舌な役どころが多いイメージの彼が、繊細な事象を捉えるカメラを信じきった演技を見せる。患者たちが何故彼に心を開くのか、自然に納得させられる。送迎だけを依頼していた患者が、時間を経るにつれ彼を家に招きっぱなしになり、食事や、その後のくつろぎの時間をともに過ごすようになる。ソファに並んでテレビを観るふたり、そこへかかってくる電話をとる患者、その様子をちらりと見てリモコンに手を伸ばす看護師。視線の動き、手の動き、お互いを窺う表情。豊潤なシーンだった。
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2016年05月21日(土) ■ |
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『カルテル・ランド』『金魚養画場~鱗の向こう側~』 |
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『カルテル・ランド』@シアター・イメージフォーラム シアター2
『ボーダーライン』の感想頁にも張ったこの記事にもあるように、現在アメリカでは中南米ドラッグ・カルテル映画が花盛りだそうで、その流れで気になっていた作品。製作総指揮がキャスリン・ビグローということも話題になっていた。実際観てみるとビグローがどう…ということが具体的に感じられるものではないのだが、宣伝としての効果や出資面から彼女の名前を前面に出したことは日本ではよかったのかも。とはいうものの、トランプ氏がメキシコの国境に壁を! と言っているのはもはや日本でもよく目にするものだし、『クレイジージャーニー』(後述リンク参照)でもとりあげられたしで、話題性はある。公開から二週間経っていたが、映画館は盛況だった。
今作は、カルテルから自分たちの街を守るため、家族を守るために立ち上がった自警団を追ったドキュメンタリー。メキシコ側、ミチョアカン州の自警団と、アメリカ側、アリゾナ国境自警団で活動する人物を追う。広大な土地で問題が起こっても、警察が出動してきたときにはもう手遅れだ。しかもその警察はカルテルに買収されている。頼れるのは自分たちだけだ。自警団は武装し、カルテルに支配されている地域を奪還していく。監督・撮影のマシュー・ハイネマンは、街に平穏を取り戻そうと奮闘するひとたちを取材する心づもりがあったのかもしれない。ところがそうはならない。
ミチョアカン自警団の中心人物である医師はカリスマ性あふれる人物で支持も高い。ところが彼が飛行機事故で重傷を負い、ナンバー2に指示を任せた頃から問題が表出しはじめる。窃盗、略奪、暴力。自分たちがこの地域を救ったのだと、傍若無人にふるまうメンバーが増えてくる。カルテルに怯えていた住民は、自警団に怯えるようになる。そもそも民間人の武装組織は違法であることから、メキシコ軍規に基づいた民兵組織として合法化しようという提案が政府側からなされ、メンバーの意見が割れる。
序盤にアリゾナ国境自警団の中心人物が“ここはWild Wild Westの時代だ”、と言う。それを象徴する画像が時折挿入される。見せしめや報復としてカルテルに殺されたひとたちだ。『ボーダーライン』では「ロケ地に住むひとたちに配慮して」CGで加えられたものが、実際のものとして映し出される。こんな残虐で野蛮な、原始的な殺人が起こっているのはいつの時代だと思うのだが、その画像はスマホの画面から見せられる。証拠保存の意味もあろうが、これらがスマホで撮影され保存されているという事実に一瞬現実味を失い、やがて恐怖が襲う。この時代錯誤。
それにしても皆さんいいツラ構え。役者か! 違う、順番が逆だ。ホンマモンの迫力ってあるわー。医師は実際いい男でひとたらし、そこをつかれて追いつめられる側面もある。彼が支持者の腿をなでまわし乍ら口説きにかかるシーンのあたりから、撮影していた監督の困惑が伝わるよう。カリスマを追う取材の筈が、この違和感。「あ、組織崩壊迄そう時間ないな」と思わせられる。ああ結局人間は悪い方に流れていくのね、数学でもそれは証明されてるもんね、数学で結論が出ちゃあこれはもう間違いない、と『アルカディア』を思い出し、政府にどこ迄任せたもんだかと『シヴィル・ウォー』を思い出したりもした。そして『ボーダーライン』から、壁つくっても地下道があるで……という知識を得てるので暗澹たる気持ちにもなりましたわ。
そんななかアリゾナ国境自警団の中心人物が語る「負の連鎖は断ち切れる」という言葉。父親から虐待を受けドラッグに溺れた過去を持つ、自身の経験に根差した結論であり信念だという。そんな彼の蒼い蒼い瞳が印象的だった。ちょっと、ほんのちょっと希望が残る幕切れだった。そういうのはだいじにしたい。
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・『カルテル・ランド』(CARTEL LAND)公式サイト
・丸山ゴンザレスがメキシコ麻薬戦争のヤバすぎる実態と「クレイジージャーニー」の裏話を語る|映画『カルテル・ランド』トークショー - AOLニュース よく取材出来たなーと思う反面、渦中にいるひとたちはそういうとこ無頓着なんでしょうね。それどころじゃないってところもあるだろう
・森達也監督 過度な「自衛」意識が招く危険性を指摘|東スポWeb 自分が観る前の回に行われていたトークイヴェントの様子。なんじゃー知ってたらこの回で観たかったな
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深堀隆介 回顧展『金魚養画場~鱗の向こう側~』展@渋谷西武A館7階特設会場
初の大規模個展ということで、初期のものから時系列順で観られたのがよかった。未知の技術を開発していく過程を追ったドキュメンタリーにもなっている。
絵を諦めようとしていたとき、飼っていた金魚の美しい背中に啓示を受けた「金魚救い」の日、アクリルの上に彩色したらきっと絵具が溶けて滲んでしまうだろう、でもやってみよう。そして予想が覆され「これだ、いける!」となった、という手法を探る日々。これらのエピソードとともに、平面的だった金魚が立体化し、微細な表現がより繊細に、そして大胆になっていく。頭のなかのヴィジョン、目にした金魚そのものの美しさを、その手によってどこ迄表現出来るか。その流れをも見せてもらった思い。
升のなかに泳ぐ金魚の美しさと、それを描く画家の執念は表裏一体のもの。閉じ込められたものの拘束美とも言える。畏怖を感じる。和傘とケロリン桶に描かれたものが特に印象に残った。メトロン星人を思い出すなあなんて思っていたら、後半のセクションにウルトラマンがモチーフになったものや魚化した観音像の作品があり、あながち勘違いでもないかもと思ったり。
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・深堀隆介 回顧展 金魚養画場~鱗の向こう側~|西武渋谷店
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2016年05月14日(土) ■ |
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『太陽』 |
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イキウメ『太陽』@シアタートラム
2011年に初演、2014年に『太陽2068』として蜷川幸雄演出版が上演。そして今年は映画の公開と前川知大本人の手による小説が刊行されたタイミングでの再演。比較する感想も書くがそれは解釈の違いとして興味深く観たもので、優劣はない。
個人的にいちばん気になっていたのはハコのこと。初演の青山円形劇場からシアタートラムでの上演となった訳だが、もし今も存続していたら再演も円形で行われたのだろうか、なんてことを考える。トラムの装置は段差が大きく組まれ、主に上層でノクス、下層でキュリオの生活が描かれる。『太陽2068』ではそれが逆で、下層=地下は夜に生きるノクス、上層=地上は太陽の恵みを享受するキュリオという図式。今回は生活格差として観ることが出来た。美術はイキウメ常連、土岐研一。
円形ほど演者を近くには感じない。その分落ち着いて観られたというか、恐怖や怒りが先に立って見逃しがちな箇所に気付くことが出来た。初演の森繁が手首を切り落とされる場面は本当に恐ろしくて、席を立ちたい、ここから逃げ出したい、と迄思ったのだった。位置的にも目の前だったのだ。観劇でそんなふうに思ったことは初めてで、今でもその気持ちをまざまざと思い出す。今回ちょっとひいて観られた分、一見呑気な森繁と、純子と鉄彦の母子らしいやりとりに和むことも出来た。そもそも和むシーンではないが、実際こういう切羽つまったときはどうでもいいことが気にかかったり、振り返ればアホかというようなことを口走ってしまうものだ。自殺(と言っていいだろう)を試みる金田に対して、草一が「迷惑なんだよ」を言い放つ場面でも客席から笑いが起こった。
そう、今回人間のポジティヴな面をより見出せた。絶望的な人類の未来だが、日常はちょっとしたことで牧歌的になる。前川さん作品にはよく、自給自足、地産地消についての考察のようなものが出てくる。ちいさなコミュニティで、それぞれがやっていけないかというようなことだ。理想ではあるが、それが難しい。歪みが起こるのはどの段階か、繰り返し検証しているようでもある。そこから社会、環境、身体から生じる差別を辿る。人間の善性に光をあてる。すると当然影が出来る。ふたつは切り離すことは出来ないのか? そこ迄考える。どの人物にも自分がいる。
自分の興味が今そこにあるのか、あるいは震災から四年が経ち、熊本と大分の地震があったばかりということもあるのか、土地=故郷を離れられないひとたちの台詞がより印象に残った。長年暮らした場所を離れられないのは何故なのか、そんなにいやなら出て行けばいいだけだと気軽には言えないのはどうしてなのか。その在り処を見せられたような気がした。今回から参加の中村まことの、がらっぱちな楽観性(ほめてる)に救われた思い。それだけに、あの父娘の別れは胸に迫った。
蜷川さんの訃報から二日後に観た。そうでなくても『太陽2068』のことを思い出し乍ら観ただろう。演出により脚本の世界がこうも違って見えるのかと驚き、楽しみ、いろんなことを考え乍ら観ただろう。それがもう出来ない。観劇中に、これだけ喪失感に襲われることはこの先もうない。蜷川さんのことはいずれ。
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2016年05月07日(土) ■ |
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『トンマッコルへようこそ』 |
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『トンマッコルへようこそ』@Zeppブルーシアター六本木
映画『トンマッコルへようこそ』はもともと舞台作品だったそうで、この度その舞台版を観ることが出来ました。脚本は映画と同じくチャン・ジン、翻訳は洪明花、演出は劇団桟敷童子の東憲司。演者は桟敷童子とゲスト、という感じの編成。
1950年代、朝鮮戦争のまっただなかに撮影された一枚の写真がある。北朝鮮と韓国それぞれの軍服を着た兵士たちとアメリカ人らしき白人、その土地の住人らしきひとたちが、笑顔で写っている記念写真。何故、どうして、どうやってこんな写真が撮られたのか? 作家はその写真の所持者である父から話をきいていく。
この作家の存在が映画とは違うところで、演劇の面白さを伝えるものになっている。作家はナレーションを務め、現実と過去との橋渡しをするだけでなく、過去のシーンに乗り込んで、想像からなる物語を更に想像の奥へと誘導する。緊迫したシーンへ介入し、観客たちに笑いと涙を誘う。不幸なことがあった、しかし幸福を想像することも出来る。その根拠は、残された写真があるという事実。写真から想像されるその後と、歴史から推測される悲劇へと、登場人物は進んでいく。ときに作家の手を借りて、そして観客の思いに乗って。
作家を演じたのは『ショーシャンクの空に』でポイントとなる少年を演じた山崎彬。わああまた悪い芝居で作家・演出家としての彼を観るまえに外部出演者としての彼を観てしまった。いやあ、いい役者さんですね……ちなみに『ショーシャンクの空に』に同じく出演していた畑中智行がまたいい仕事していまして。麒麟の川島明ばりの低音美声とよい滑舌、身のこなしも美しい北朝鮮側の隊長役で非常に印象に残った。声もいいが、黙っているときも思慮深く見えるマジックを持ってる方でした。キャラメルボックスの役者さんとのこと。カーテンコールの挨拶からして今回彼が座長だったのかな。
改めて『ショーシャンクの空に』はつくづくいい座組で丁寧な仕事ぶりが感じられる作品だったよなと思いましたわ……。今回も同じような感触を得たんですが、プロダクションも同じところですね。良質な翻訳劇をかけるところ、としてチェックしておこうと思いました。
ストーリー展開はわかっているので涙を禁じ得ない訳ですが、それでもやはり「ひょっとして舞台版だから展開がちょっと変わるんじゃないか」とか思ってしまうので、尚更「あああやっぱそっちに行くか、そうなるかー」と悲しみもまた上塗りされるというか傷口に塩を塗り込まれるというか、しかも最前列だったので演者の熱演の圧も高く、GWののどかな気分も吹っ飛びましたよね……そこでまた作家の存在に救われる訳です。彼が「こうあったかもしれない光景」「そうだったかもしれない交感」を見せてくれる、伝えてくれる。うううよく出来た構成…そして未来に託す思いが、今はもういないひとびとの笑顔に二重写しになる。観てよかった。
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ブルーシアター初めて行ったんですが、みごとに周囲に何もないとこでごはん難民になりました。駅前でなんかしら探してみればよかった……。六本木にこんなぽかっとした空間あるのねえ。劇場売店のパンを食べたよ…おいしかったよ……。近くにスヌーピーミュージアムが出来てました。
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2016年05月04日(水) ■ |
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『スポットライト 世紀のスクープ』 |
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『スポットライト 世紀のスクープ』@TOHOシネマズ新宿 スクリーン11
言葉の置き換え。調査をかいくぐる巧妙なものから止むに止まれぬ優しさによるもの迄。言葉を駆使し、記者たちは取材する。インタヴューを繰り返し、記事を書く。辛抱強く、丁寧に。事件を一瞬の祭りではなく、忘却へ向かわせないために。再発を防ぐため、システムを変えるために。
記憶の置き換え。記者たちには後悔がある。虐待についての資料は何年も前に新聞社に送られていた。その資料の実物も、記憶も「もっと大事なことがある」と目の届かないところに追いやっていた。調査の精度をあげるため掲載を見送った数週間、その間に新たな被害者が生まれてしまった。彼らにとって、これらはスクープを他社に奪われてしまうことよりも堪えた筈だ。記者たちの顔をカメラは静かに捉える。この後悔を忘れない、これからこんな後悔をしてたまるものか、という顔を。
きっかけというものを考える。“よそ者”の編集局長が赴任してこなかったら? 定期購読者の53%を占めるカトリック信者を前に尻込みしたままだったら? 辛抱強い取材の賜物とはいえ、意外にも口を開くひとが多かったという事実。記事にならずとも噂は隠されない。ひとの口には戸が立てられない。訊けば応える、皆どこかできっかけを待っていた。素朴な疑問として、続報を要求した編集局長の果たした役割は大きい。
サヴァイヴァー、生存者と言われるひとたちのことを考える。神父たちの行為は性的虐待、いたずらという言葉に置き換えられるようなものではない。しかし被害者はその内容のおぞましさと羞恥から、加害者は自己弁護と罪悪感から曖昧な言葉にしてしまう。間に合わなかったひとたち、既に死んでしまったひとたちのことを考える。心は実際死んでしまう。死んだ心は身体の生命力も奪う。それがどういうことなのか、記者たちは言葉で伝えようとする。
調査報道のたいせつさ。タブーに触れた記者たち、そしてこれを映画化するアメリカという国の強い意志。歴史が浅いからなのだろうか? 私たちはこうしていかなければならない、世界をよきものにしていかなければならない、という高い理想がアメリカにはある。それは今さまざまな軋轢を生んでいる。ここらへん、翌週観た『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でのキャプテン・アメリカにも感じたことだ。この物語には、彼のようなヒーローはいない。しかし何かを変えることは出来た。理想を実現するために、どのように歩んでいくか。見失ってはいけないものは何か。
AOLの企業看板が映るシーンがある。ああ、この頃ポータルサイトといえばAOLだったな、と思った直後、9.11の場面になる。あれから十数年が経った今、報道のあり方ついて考える。情報のたいせつさはその速さにあるのではない。情報が情報となりうるために必要な時間を、今どれだけ確保し守ることが出来るか。情報を受けとる側の姿勢も問われる。
そして宗教と信仰。持論だが、信仰というものは神(と呼ばれる存在)と自分だけの、一対一の約束だ。約束する相手は神父ではない、教会ではない。そのことだけをしっかり覚えていれば、信仰は教義ではないと気付くことができる。礼拝とか伝道とか寄付とか、そんなことではない。教会があるとすればそれは心のなかで、神父は人間だ。
サヴァイヴァーと一緒にこの映画を観た。彼女は、記事の掲載された新聞が印刷される場面から泣き続けた。真実が明かされ、世間へと開かれていったことが嬉しかったのだと言った。肉体が生きていさえすれば、一度死んだ心も再生出来る筈だ。そうでなければ。
構成と台詞の応酬が素晴らしい。舞台でも観てみたいなあと思った。実現したら日本版の上演台本と演出はスズカツさんがいいな(ことだまことだま)。
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・(フロントランナー)米紙ボストン・グローブ記者 マイケル・レゼンデスさん、サーシャ・ファイファーさん 調査報道にスポットライトを:朝日新聞デジタル 「政治家の言葉をニュースとして報じるより、ニュースを掘り起こし、作り出す調査報道の方がずっと面白くて意義がある。これぞ記者のだいご味、自分のやりたかったことなんだ」 モデルになった記者たち。地道な取材は600本もの記事になった。 レゼンデスさんはアカデミー賞授賞式にもいらしてましたね。映画のなかで彼にあたる人物がランニングをしているシーンがあるが、実際の彼の趣味でもあるとのこと。爆破テロのあった2013年のボストンマラソンにも出走しており、ランナー姿のまま取材へと走ったそうです
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