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2015年11月20日(金)
『スポケーンの左手』

『スポケーンの左手』@シアタートラム

マーティン・マクドナー作品のなかでもなかなか上演許可がおりないものだとのこと。その理由のひとつが、初演(2010年)の役者にあてがきしてあるからだそうで、その初演の役者と言うのはこちらのとおり。しかし当方この作品を初めて目にしたのが今回なので、先入観も抵抗もなく観ることが出来た。バイアスがあったとすれば「マクドナー作品」それ自体か。と言うのも、今作はマクドナーだわ〜、と言うものとマクドナーなのに?! と言うものの塩梅がとても心地よかったのだ。前者におけるヴァイオレンス描写。後者における結末の優しさ。

席が最前列だったのだが、上演前わざわざスタッフが「いろいろものが飛んできますのでご注意ください」と言いに来て、あちこちから「なにー?」「うわ〜マクドナー作品だからな〜(ニヤニヤ)」と言うような笑いが起こる。しかしビニールシートは配られていなかったので、血糊ではないんだな、とも思う。そこ迄考えるのもどうかと思うが、マクドナー作品だから人体損壊さもありなん、と覚悟して観に来ている部分はある。果たして血は飛んでこなかった。しかし雪合戦さながら投げつけられる人体のパーツは飛んできた。苦笑、苦笑。こんなことをする登場人物に苦笑し、それを見て笑ってしまう自分に苦笑する。登場人物たちは皆うそつきで、真実と事実は違うと思っていて、自分は被害者だと思っている加害者だ。

力関係はちょっとしたことで入れ替わり、誰も安全圏を確保することが出来ない。銃を持っていても、取引の条件を持っていても。しかしそこにひとり、自分の安全を確保しようとしない人物がいる。彼は「失われた左手」について、独自の、しかしまっとうな解釈を述べる。舞台はアメリカ。アイリッシュの要素は皆無。ただ、アメリカは移民の国で、アイルランド系も多くいる。左手を探し続けている人物がその手を失ったのはスポケーン。27年間探し続けて流れ着いたのはターリントン。ターリントンは架空の街のようだ。左手の思い出はスポケーンにしかない。その実体はどこにもない、あるいはすぐ傍にある。スポケーンには左手の思い出がある。断ち切れない母親がいる。では、今彼がいるターリントンには誰がいる? 何がある?

どいつもこいつも一筋縄ではいかず、関わりたくない人物ばかり。それでも撃つな、と願う。ライターに火をつけるな、と祈る。そしてマクドナーは観客のその思いに応える。残るのは安堵と、その何倍ものやりきれなさ。彼らは世界のあちこちにいて、些細なことから些細な金をくすねたり、些細な行き違いで身を危険にさらす。それは舞台上にあることではない。自分たちの日常にあることだ。運が悪ければ命を落とす。対面で設置された客席の間、細長く横たわる舞台に立つ役者たちは綱渡りをしているようだ。舞台から降りられるのはベルボーイだけ。ベルボーイだけが客席とコミュニケーションがとれる。そして左手の主とも唯一意思の疎通が出来る(ように感じる)。ベルボーイはひたすら自分に起こったことを話す。無差別乱射事件の話をする。そこにいる自分自身を想像する。かわいい女の子がいたら? 俺は彼女を助けられるだろうか? 助けたら俺はきっと女の子と仲良くなれる。乱射事件が起こればいいのに。そんな彼の独白を聞いている筈がないのに、左手の主は彼に自分と同じ臭いを嗅ぎとる。

左手を売りにくる男女ふたり組の、人間のちいささ、弱さに痛く感じ入る。泣き虫、短絡、日和見。自分は差別される側だと常に思っている。演じた蒼井優と岡本健一、やかましくて、落ち着きがなく、滑稽で悲しい。蒼井さんはアバズレの役が非常に上手い。これが素なのではを思わせてしまう程に上手い。レイシズムに敏感だが、目の前の変化によって彼女はきっと簡単にレイシストにもなる。ホテルになんて泊まったことがない=この街を出たことがない、育った環境をその人物の背景として見せる。今目の前にあることだけを信じ、その目の前のことにおいてつく嘘は彼女にとって嘘ではない。嘘を本当にする、それが役者。岡本さんは以前『タイタス・アンドロニカス』でもムーア人のエアロンを演じており、有色人種の役は二度目とのこと。以前日本人が黒人の役を演じた某作品を観たとき、そのヴィジュアルがあまりにも塗ってます状態で滑稽に見えてしまったことがあり、こんなことなら素の肌で見せた方が、舞台の強みとしての想像力を使えてよいのに…と思ったことがある。岡本さんの肌の色は(多少は塗っていたのかもしれないが)、その顔立ち――と言うより演じることによって醸し出されるツラ構えと言った方がいいだろう――と出で立ちの間に齟齬がないものだった。『タイタス〜』でもそうだったが、ヴィジュアル的にも違和感がない。繊細なチンピラはかわいらしくもあり、愛すべき存在。

ベルボーイの成河は抜群の存在感。中盤ひとり芝居とも言える長いシーンがあり、ホテルの部屋を孤独なベルボーイの自室に錯覚させるマジックを見せる。誰にも見られず、誰にも聞かれていないからこそ出来る独白を、観客は見て聞くことが出来る。観客で満ちてるのに誰もいない空間をつくりあげるその表情、身のこなし、そして身体のライン。見られている、聞かれていると言うことをこちらに意識させない。しかし声のトーン、視線の動きは見せる、聞かせるものになっている。誰にも話せない独白=告白はあまりにも空虚で、その人物の空虚さを浮き彫りにする。自室を覗き見させているような錯覚を起こさせる演技、見事。

そして中嶋しゅう。27年間左手を探し求めた年輪を刻んだ顔貌、時折見せる焦燥と疲弊。部屋への出入りの際見せる身体のキレ。ラストシーンのライターを弄ぶ手。一挙一動に惹きつけられる。最前列故舞台をひきで見られず、登場人物たちが距離を置いて対峙する場面等はテニスの試合のように首を左右に振り続けることになるが、中嶋さんから目を離すのがとても怖かった。目を逸らした途端何をするかわからないと言う恐怖感があった。それ程の人物像だった。

翻訳も手掛ける演出の小川絵梨子、言葉のニュアンスを細やかに日本語に落とし込む。特にベルボーイの、頭がキレると言うことは語彙を多く持っていることではないことを表現するようなつたない言葉遣いと、その受け答えの反射神経の良さを心地よいリズムで聞かせていく。「ヒガイモウモウ」等、語感のチョイスも興味深かった。

数日前聞いた、マドンナの「私たちは皆移民」と言う言葉を思い出した。



2015年11月15日(日)
『黄金のごはん食堂』

『黄金のごはん食堂』@東京芸術劇場 シアターイースト

アジア舞台芸術祭の国際共同クリエーション公演で、無料。F/T関連企画。脚本・演出は韓国のソ・ジヘ、身体表現アドバイザーにタイのティラワット・ムンウィライ。出演は日本のナイロン100°Cや俳優座の役者たち。

2050年の一週間、2048年の一週間、2010年の一日。日本で起こる異常気象による飢饉、格差社会から起こる内戦。上演前にこの年代設定についての説明を先に読んでしまっていたので、登場人物たちの言動からああ、この夫婦だちが幸せだった時代を象徴するのが2010年なのだろうなあ…と思う。果たしてその通りなのだが、連想されるのは日本のことよりも韓国のことなのだった。勿論日本でこの話のようなことが起こりうる、と言う実感は強い。自国で生産出来る食糧はたかが知れているし、土地柄孤立しやすい。しかしこの物語が生まれた背景には、韓国の歴史が深く関わっている。日本の未来を韓国の過去と照らし合わせているようにも映る。

この公演を観に行くことにしたのも、ここ一年ちょっとで韓国の映画、演劇事情に興味を持ったからで、その影響もあり韓国の歴史や文化についても以前より知っていることが増えた。飢饉について、民主化運動について。逆にこれらを知らなければ、なかなか厳しい作品だったとも言える。もともとはリーディング用の短編だったものを拡大して一本の舞台作品にしたそうで、粗い構成や、舞台用に加えられたと考えられる身体表現にとってつけた感が強い。意図的だとわざわざ注意書きがあった、タイトルでは「ごはん」、上演中表示される字幕は「ご飯」となっているアジアの主食である米についても、その「意図的」の真意を伝えきれていないように思えた。演者がよくやっているだけに、そのちぐはぐさは気になった。物語の中心となる年老いた夫婦の嘆きは胸に残った。

帰宅してこの日、韓国でデモ隊と警察の激しい衝突があったことを知る。やはり昼間に観た作品からは、韓国のことを思い出す。ただ、それは他人ごとではないとも強く感じる。



2015年11月14日(土)
『ブルーシート』

『ブルーシート』@豊島区 旧第十中学校 グランド

2013年、福島県立いわき総合高等学校の生徒たちによって初演された作品が東京の廃校で再演される。2013年から2015年、福島から東京。時間と場所が変わる。登場人物はちょっと変わる。人数もちょっと変わる。出演者もちょっと変わる。そのちょっと変わることに何かが宿る。勿論その何かは、初演にもあった筈だ。その何かは、上演される度に姿を変える。しかしその姿が見せてくれるものは、命と言うものの凄まじさ、であることに変わりない。命は生まれる。命は消える。その繰り返し。

飴屋さんの作品は、その作品(出来事と言ってもいいだろう)に出てくる(いる、と言ってもいいだろう)ひとたちにまた会いたくなる。けど、もう二度と会えないんだなと思う。だから、観てきたものひとつひとつがだいじなものになる。

二度と会えないひとたち、作品と言うことをもうちょっと具体的に考えてみる。岸田戯曲賞をとり、出版されていたものからこの作品はちょっと変わっている。冒頭に書いたように、登場人物たちは初演時より歳をとっている。彼らは高校を卒業し、二十歳を超え、お酒が呑めるようになっていたりする。故郷を離れている子も、就職が決まった子もいる。それらに合わせて台詞が追加されていたり、変更されていたりする。

初演の場所であるいわき総合高校の上空にはトンビが飛んでいたのだろう、重要なモチーフとしてそれは劇中でも言及され、SEとしてその鳴き声が響く。ピーヒョロロロロ、ピーヒョロロロロ。東京の会場は隣にも学校がある。客席からは、台詞に出てくる「ブルーシートで覆われて」その後「コンクリートで覆われ」た「地震で崩れた」「崖」ではなく、その隣の校舎と、屋上に留まっているカラスが二羽見える。SEに呼応するかのように、カラスが鳴き始める。カアカア、カアカアカア。名前も知らない鳥が、グラウンドの上空をチィー、ピィー、とさえずり乍ら横切っていく。グラウンドの向かいの道路には、乳母車を押した夫婦らしいふたり、杖をついた老人がいる。彼らは立ち止まり、フェンス越しにこちらを覗き込んでいる。

「あ、あのトンビは、私を食べようと、しているな。」と言う女生徒の上空にトンビは現れない。しかしここには、それこそ屍肉を漁りそうなカラスがいる。名もなき鳥が鳴き終え飛び去る迄に、ほんの少し奇妙な間があった。恐らく音響オペレーター(視界には入らなかったが、飴屋さんが直接操作していたと思われる)が、鳥がさえずり終わるのを待ったのだと思う。

この日は雨が降った。観客たちはビニール合羽やレインコート、ウィンドブレーカーを着てグラウンドにいる。後ろに並んでいたひとは「フジ(ロックフェスティヴァル)でいつも使うの持ってきた」と話していて、自分もそうだった。見渡した客席は鮮やか(山の装備はそうなる)な色と半透明の色に彩られる。ト書きにはないシャボン玉(あれを散らす、紐を用いた道具はなんと言うのだろう?)が舞いあがり、雨による泥で出演者たちの靴は汚れていく。

これらは環境に因るところが大きい。そしてこの環境を察知する力は、演出家としての飴屋さんの特色でもある。戯曲=文字が、環境を得て立体的に現れる。紙面に並んでいた「逃げて! 逃げて!」がリフレインとなり、身体運動のリズムとともに、熱を帯び、響きを生む。それらと噛み合うように、違う言葉が声を得て、異なるリズムをもって重ねられていく。言葉の意味と身体のアクションで奏でられる、生命体の音楽のようでもある。それが観客の感情を衝き動かす。2011年の災害がこの作品の起点でもあるが、以前起こった西の災害のことを想起させる台詞もあり、自然の脅威は繰り返されるものだと思い知らされる。リフレインのようにそれは巡ってくる。そこに生きるものたちの思いなどはおかまいなしだ。自然は命を根こそぎ奪っていく。

災害が起こるところにはブルーシートが現れる。ブルーシートが青いのは、空や海が青いから、と言うだけの理由。ブルーシートは覆い、隠し、守り、包む。そしてたまたま生きている(生き残ったとも言える)命たちが再び集まってくる。ここにいて、今ここにいる(元)生徒たちが演劇をつくる。彼らは生き残ったときのことを覚えていることが出来、目の前で起こった恐ろしいこと、悲しいことを忘れることが出来る力を持っている。命はタフでしたたかだ。初演に出演したひとりが今回出られなかった、その理由が明らかになるとき、その強い力を思い知る。11人いる筈なのにひとりいない、ふたりいない。しかし実は11人いる。光がある。

この作品が戯曲賞をとったのは、その環境と言うもの、続いていく命と言うものを、媒介としての言葉に焼き付けた飴屋さんの観察力が評価されたからだと思う。彼は以前『キミは動物(ケダモノ)と暮らせるか?』で、「あなたは自然物ですか、それとも人工物ですか」と問うた。そして今、自然物を観察し続けている。

「おーい! おーい! お前は鳥か?」
「おーい! おーい! お前は人間か?」

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その他。

・演者たちはピンマイクを装着していた。途中迄気付かなかったくらい音響が自然音に近く、尚且つ通る。野外でこれはすごいなあと思った

・個人的には中央〜下手寄りの席がおすすめです

・天気によるかもしれませんが、12月公演はもっと寒くなると思いますので行かれる方はしっかり装備を! 座りっぱなしで動かずだと、時間が経つにつれ足から冷えてきます



2015年11月05日(木)
『無頼漢 渇いた罪』

『無頼漢 渇いた罪』@シネマート新宿 スクリーン2

原題は『무뢰한(無頼漢)』、英題は『The Shameless』。本国でも日本でも2015年公開、監督はオ・スンウク。捜査のため素性を偽り、容疑者の恋人に近付く刑事。刑事は容疑者確保と言う任務と、容疑者を潰してほしいと言う組織からの依頼の間で揺れる。容疑者を待ち、抱えた借金を返すため奔走する恋人に、刑事は惹かれていく。ああ〜こういうグダグダダラダラした煮え切らない話結構好き…ツッコミどころは多々あるが……。

ツッコミどころと言うのは、なんと言うか「このエピソードを出したいのでここで説明しとかないと」ってのが透け透けのセリフや話運びが多いんです。で、その出したいエピソードってのが、別にそれいらんやん……と言うとあんまりですが、このスットコドッコイめが! と言いたくもあり(この方があんまりじゃないか)。実際そのシーンはストーリーに何の影響も及ぼさないんですね。催淫剤のくだりが典型的。あと容疑者にしても刑事にしても、女性をだいじに扱ってますって場面をわざわざ入れてる印象。何も知らず全裸で眠っている女性にそっとシーツをかけてあげたり、金に困って手放したピアスを買い戻してあげたり。ここも非情な男たちにこんな面がありますと示しておこう、と言う配慮なのか…? ではその配慮は誰に向けているのか…? と思ってしまう。

その二面性にグッときてしまったのも確かなのですが(苦笑)。しかしこれらは演者たちの繊細な演技に因るところが大きい。ホンの粗は理屈だが、演者の表現には情感が絡む。登場人物の二面性は迷い、ともとれる。容疑者を演じたパク・ソンウンも刑事を演じたキム・ナムギルも、その迷いの表現が上手い。物言わぬ表情に陰がある。そのふたりが無言で格闘するシーンは迫力があります。これは後に考えると、容疑者と刑事と言う図式だけでなく、ひとりの女性を巡っての対決ともとれる。終盤、いよいよ追い詰められた容疑者が車を出たあとのアクションシーンも素晴らしかった。男を取り囲む刑事たち、車中に残る女、バット、ナイフによる肉弾戦から銃撃へ。激しく、哀しく、あっけない。

しかしやはり何が素晴らしいって、チョン・ドヨンが素晴らしい。容疑者の心は本当にはどこにあったのか。上海に逃げようと言ったのは本心か。女は金づるだったのか。彼女にもきっとそれは判らなかった。彼女は男を信じたかった。しかし近くにいる刑事の優しさにも触れていた彼女は、その信じていることにも迷っている。時間の経過とともにその揺れが大きくなっていく。気丈に振舞っているが、いつも張り詰めている。チョン・ドヨンは思いつめ、腹を決め、甘え、迷う。それらが表情に溢れる。集金にまわるときの勝負服とメイク、家で食事をつくるときの普段着とスッピン。まとうもので身体つきすら違って見える。しかし暗闇で眠る全裸の彼女の身体は、神々しい程に嘘がないように見える美しさだった。そして車中でのおびえきった様子、その後車を出たときの振る舞いと表情。鮮烈に目に灼きついている。

街の綺麗じゃない部分を重めのトーンで撮った画面もかなり好き。冒頭、主人公の前をねこがとぼとぼ歩いていくシーン(これが結構長い。ついつい、ぼんやり、ねこを目で追う。この時間がいい)でもうひきこまれた。多い坂道、高い湿度。おおよそ衛生的ではなさそうな街の魅力。やわらかい陽光のなかで、幸せそうに朝食の準備をする女。チャプチェはあんなふうにつくるんだ、そうだなああすれば満遍なく混ざるんだな、おいしそう。この暖かい光景は「私こう見えて料理上手なのよ」と言う台詞に説得力を与えていた。パク・ソンウンとチョン・ドヨンの陰影ある裸体はまるで宗教画のようだった。ソンウンさんも彫刻のような身体の持ち主なので、あの構図は美しかったなあ。事後すやすやと眠る男女、つかの間の安息。

あとこの哀愁ある湿った音楽…と思ったら、『新しき世界』も手掛けたチョ・ヨンウクでした。『ベルリンファイル』もこのひとだったし、売れっ子さんですね。

シネマートのスクリーン2で観たと言う場末感ともども、じわりと心に沈んでいく映画。