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2015年10月29日(木)
『ドラマ・ドクター』

『ドラマ・ドクター』@吉祥寺シアター

登場人物名や演者の口調等から翻訳劇かと思ったら、作・演出ともに川村毅となっていた。川村さんの作品を観るのも久々、このテイストの演出を観るのも久々なような気がする。

映画業界にいると言われる「スクリプトドクター=ドラマ・ドクター」が、執筆にいきづまった劇作家たちを診察する。プロデューサーに共作を依頼されたと言うタイプの違うふたりの作家、ふたりとは既知の仲で、初めて作品を発表してみようとする女優、死刑囚の作家がドクターの仕事場に集う。脚本を持ち込む作家、脚本を読むドクター。ドラマの内容が再現されていくと、やがてそれが現実を侵食していく。これが誰が書いた世界なのか。どこからどこ迄が劇世界なのか? いや、そもそも今自分が観ているものは劇なのだ。

劇中の世界はどこの国、と言う明示はなかったが、アメリカの色は濃かった。死刑囚の作家はアラブ系を思わせる風貌だし、彼が跪かせたふたりの劇作家を両脇に従えナイフを振りまわす場面など、明らかに意識しているものがある。そもそも映画業界は、ハリウッドがモデルだ。

やがて作家たちのトラウマが明らかになっていく。告白でもある。作家たちにはそれを劇作の燃料としてよいものか? 書くことの基盤としていいのか? と言った葛藤がある。「商品」であるドラマを書くこと、自身を削って「商品」を生み出すこと。自負と誇り、欺瞞と向き合い苦しむ作家たちが、若い役者たちによってフレッシュに表現される。対してドクター自身は劇作から、自身の人生に迷いを感じているような場面もある。そしてドラマを見せてほしい、どこにもないようなドラマを、と熱望するプロデューサー。世代、職業、立場、属性。示唆に富んだシーンの数々。

ドクターに久々役者オンリーの河原雅彦。シリアスな場面を冷めた目で見やり、はぐらかし、核心をつく。そのヌケのリズム感がたまらない。ライバルでもあるふたりの劇作家に末原拓馬と堀越涼。作風も外見も全くタイプの違うふたりが共振していき、やがて書く者の決意としてドラマを追う道を選ぶ。その希望に満ちた目と覚悟の目、眩しくもある。女優に岡田あがさ。突然登場し、途中から介入してくる劇作家でもある。リズムに乗るのが上手い。死刑囚の劇作家に笠木誠。第三エロチカ直系の怪演。

生きるのに精一杯な世界とは、書くことがたくさんある世界。作家たちを見送るドクター、そのラストシーンに、作家と言う生きものの幸福とは? と言う思い。そしてこの作品を書いた川村さんのことを考える。



2015年10月17日(土)
『ヴェローナの二紳士』

『ヴェローナの二紳士』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

横田さんはヴァレンタインをヴァレンティンと言い間違えることなく(ご本人のツイート参照。スワローズCS佳境でしたからね(◜◡◝))大団円〜。うえーんすっごくよかったこれ! 世界が箱庭のように感じられる幕開けと幕切れ、喜劇における蜷川さんのこういう演出だいすきです。せつない。

シェイクスピアの初期作品と言うこともあり、喜劇における彼の手法やモチーフがふんだんに詰まっています。ふたりの道化(召使)は『間違いの喜劇』、指輪のやりとりは『ヴェニスの商人』、女性が男装してややこしいことになるのは『お気に召すまま』、そして森で起こる夢のようなできごとは『真夏の夜の夢』。ドタバタっぷりも無邪気。その分ひとをもののように扱うヒドさっぷりも容赦がない。描かれた時代と言う背景もありますが、それにしても登場人物の屈託のなさ! だます、だまされる、怒る、悲しむ、悔いる、許す。そのスピードと強引さと言ったら。ああ、こういうふうに悔いることが出来たら、許すことが出来たら。生きることに迷いがなく、ただただ自分の思いにまっすぐな登場人物たちが眩しく見える程。ドタバタを上空から見つめる神さまは、きっと苦笑し乍らも彼らを祝福しているのだろう。そんなふうに思える。

何度も書いていることですが、蜷川幸雄演出のシェイクスピア劇のすごいところは、その時代にそこで生きている人物が話しているような自然な口調なのに、登場人物が何を言っているかが分かること、物語がどう動いていくのかがはっきりとわかること。言葉のどこに力点をおくか、支点をおくか。誰に、何に対してその言葉を向けているのか。演者の台詞術への指導と、場面と時間の置きどころの整理術が図抜けている。

そして今回、オールメールシリーズとしても出色のものだったと思います。いいように扱われる女性を男優が演じていることに改めてはっとさせられる。客席を行き来する役者たち、そして舞台に張り巡らされる鏡。蜷川演出ではよく出てくるモチーフですが、登場人物たちの表情をあらゆる角度から見ることが出来ると同時に、向かい側にいる観客の笑顔が目に入った瞬間、鏡のなかに自分の姿を見つけた瞬間、舞台上で起こっていることは自分とは無関係ではないのだと気付かされる。世界は繋がっていて、自分はその世界の住人なのだと感じ入るに充分な効果をあげていました。舞台上に常駐する音楽家たちは、劇伴だけでなく効果音も担当。こちらも愛すべき世界に寄り添うもので、登場人物たちの台詞や動作ととてもリズムよく噛み合っていた。

冒頭に書いた幕開けについて。舞台上には劇中使う大道具・小道具が無造作に積み上げられています。その量にまず圧倒される。劇場に足を踏み込んだ瞬間高揚する。この時間が大好き。そして演者たちが客席から登場し、舞台上に一列に並んでうやうやしく礼をする。自然と拍手と歓声が起こります。幕切れでもこの礼は行われ、こちらも自然と拍手が沸く。そこには感謝と敬意がある。

溝端淳平のジュリア、とにかくかわいい。幕開けの挨拶で隣のひとは「かわいい、かわいい、かわいい!」と連呼していた。これには深く頷いた。結構男らしい顔立ちだと思っていたので、これ程女装が似合うとはとポワーとなりました(笑)。とにかく愛らしい! これは他人には真似出来ない才能ではないだろうか。台詞まわしや所作はやはり慣れないところもあり一所懸命さが滲んでしまうのですが、そもそもジュリアは男装して(男優が女装して男装…オールメールはいつもここがややこしいな・笑)恋人を追いかけていってしまうような行動力のある娘なのでむしろ頼もしい感じ。女方としてはやはり月川悠貴のシルヴィアが絶品。シルヴィアは内に秘めた意志の強さを蒼白い炎のように立ち上げる女性像。オールメールシリーズにおける月川さんの貢献度を強く感じるものでした。そして同じく蜷川カンパニーにおいて女方を確立したと言ってもいい、岡田正のルーセッタも素晴らしい存在感。マンマと呼びたくなってしまうかわいらしさ。大石継太と正名僕蔵のアホの子コンビは、ご主人さまとのかけあい、観客と舞台の橋渡し。主従さえ自由に行き来する軽快なやりとりが素晴らしく、頼もしい。

プローティアスの三浦涼介とヴァレンタインの高橋光臣は対照的。だます側とだまされる側。悔いる側と許す側。えっ、そんな簡単に友情を裏切るの? そんなに後悔するくらいならやるなよ……と、強引なストーリー運びでもあるこの作品で、観客を納得させなければならない。高橋さんは素直さと天然が紙一重のようで、人間の大きさを感じさせるヴァレンタイン。これは周りが助けてあげたくなります。三浦さんは役柄としては本当に憎たらしいというか、はっきり言ってしまえば最低な人物なんですが(笑)役者としてはこれはやってみたいと言うかやりがいがある役だったかと。シルヴィアにひと目惚れしてしまったときの表情、行動に溢れる愛嬌と言ったら…これは憎めないわー。神さまから愛される、その分いじられる(笑)人間だった。そして三浦さん、月川さんととても顔立ちが似ています。ふたりが相対する場面では、月川さんが数年前の自分と対面しているよう……なんて錯覚を覚えたりもしました。

そうそう、この日はジュリアがプローティアスに渡す指輪を間違えると言う致命的なミス(…)をやらかしたんですが、三浦さんのフォローが絶妙で大ウケの場面になっていました。狼狽する溝端さんのリアクションがまたよくて、喜劇が一周まわってアドリブじゃないんじゃないの? と思ったくらい。アドリブと言えば、ほんもののいぬ(ラブラドル。かわいい)にじゃれつかれながら言葉遊びふんだんのモノローグをやりきる正名さんがたいへんそうです(笑)。こういった予期しないハプニングも満載、それにグイグイライドしていく演者のドライヴ感、最初から最後迄幸せな舞台でした。

希望を語らず、悲劇を自分のこととして闘い続けてきた演出家が、生まれたことを、生きることを祝福するかのような喜劇をつくりあげた。観られたことが本当に嬉しく、感謝するばかりです。

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そうそう、開演前、出演者でもある音楽家たちがロビーでミニライヴをしています。早めに行くと楽しいですよ。



2015年10月12日(月)
スーパー歌舞伎II『ワンピース』

スーパー歌舞伎II『ワンピース』@新橋演舞場

ラグビーW杯を朝迄観ていて三時間睡眠(つってもその後該当ニュースとかうとうとし乍ら観てたんで実質二時間程か)で出掛けていきましたが、やー、居眠りする暇などなかった! 原作は未読、キャラクターも巷で見掛けるものをうっすら把握している程度です。

客席や壁面迄スクリーンにするプロジェクションマッピング(上田大樹!)からポップな色彩の照明(原田保! てか直近観劇二本とも照明は原田さんだったわ)、衣装で、まるでディズニーランドのような華やかな場面が続く。そのうえ本水ド派手使いとか宙乗りとか、それ通常は大詰めで使うだろうって演舞場の機構を二幕で使い切りよった。二幕目終わったときの客席のどよめきはすごかった……近くのひとが「二幕でこれって、三幕目どうなるの」とか言ってて心のなかで強く頷いた。果たして三幕は役者の力とドラマで見せる見せきる。先代猿之助・現猿翁のスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』からの継承と感じられる演出もあり、改めて演出家・市川猿之助が見据えているヴィジョンについて思いを馳せる。そして澤瀉屋の結束力。「どう?お客、喜んでる?」。歌舞伎役者はこういうところがある、観客をとことん喜ばせ、楽しませて帰らせる使命を強く自覚している。そして伝統に裏打ちされたアイディアの抽斗を更新する。芸への信頼と献身だ。むっちゃ喜んだ。むっちゃ楽しんだ。

昨今漫画の舞台化と言うと2.5次元に代表される「再現度」が強く押し出されるが、歌舞伎で、とブチあげた時点で漫画の舞台化=ヴィジュアルを忠実に再現しませんよ、と言う前提が出来る。これは結構大きいと思った。観客の間口が拡がる。しかしそうは言うものの、歌舞伎寄りな拵えでのエースやサンジが格好よくてな……長い連載のなかから「頂上決戦」と呼ばれるパートをとりあげた構成で、所謂「旅の仲間」が揃い踏みの出番は序盤と大詰めのみ。役者の殆どが複数の役を演じる。サンジで登場した中村隼人はどちらかと言うとイナズマがメイン、ゾロの坂東巳之助もボン・クレー、スクアードこそが重要なキー。個々のキャラクターのファンからすると「えっこんだけなの?!」と思うところもあるかもしれない。

それにしても、八面六臂の活躍ってふつう一作品につきひとりに対して使う言葉だが…この作品にはそんなひとが山盛りである。猿之助さんは勿論だが、特に印象に残ったのはボン・クレーの巳之助くん。あの仕草、あの台詞まわし! テンションマックス、キレッキレです。言うこと言うことジョジョフォントでヴィジュアライズされるって言うか…「そこにシビれる! あこがれるゥ!」「貧弱ゥ!」「世界一ィィィイイイイ」みたいな(笑)歌舞伎でジョジョをやることになったら是非出演してほしいわ〜。そして本水ドバドバの場面は、隼人くんとともに文字通り身体を張っての大立ち回り(一緒に観たタさんが「若い子に任せたわね」と言っててウケた)。声がえらくハスキーになっていたので心配になったが、ご本人がブログで「全然大丈夫」と書いているので信じるしかない。そしてイワンコフの浅野和之なー! あのハジケッぷり…そのハジケッぷりを支える身体能力……あんた最高だ!!! マイムも披露して客席が「おおお?!」と湧いていた。しかもすごくいい台詞もらってた。ご本人も感じ入るところがあったのではと思う。個人的にはこの二幕、ニューカマーランドのショウアップがハイライトでした。市川猿弥のジンベエもよかったなー。

一役のみだった白ひげの市川右近、エースの福士誠治はどっしりじっくり魅せてくれた! 右近さんは武蔵坊弁慶のようでもあり、ラオウのようでもあり。福士くんは囚われの身なので一、二幕はおとなしめ、三幕が見ものです。京劇的な演出でバリバリ動くところもあり、もう鬼の形相。このハードルの高さよ……と思ったけど、それを出来ると期待されて呼ばれてるんだなあとも思いました。そして猿之助さんに抱かれて死を迎える福士くんて、『空ヲ刻ム者』の十和と伊吹再びだわと思いつつ、今回はキャラクターが真逆なので位相も変わる。美しい光景でした。

千秋楽迄どなたも怪我などしませんように、事故などありませんようにと祈るばかり。

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その他。

・エンドロールで小道具が竹田団吾だと知る。あの小道具の数々、な、納得……(笑)
・「序章の声」に中村七之助(夜は中村勘九郎とのこと)。これ事前に情報得ていて、五時間後にエンドロールで知っても「忘れとるわ!」となるのは尤もだと思いRT迄したのに忘れていた。いや、三時間睡眠だったから……

・プログラムにボンクレーやイワンコフの写真がないのが残念! 複数演じてるうちの一役しか載ってないから。後半になったら舞台写真入るのかなあ…てか舞台写真買えばよかったよ! と思う程だよ!!!
・浅野さんのイワンコフと巳之助くんのボンクレー、これな。前列中央と前列右から二人目、とキャプション入れなきゃ何がなんだか…そもそもこの絵面で歌舞伎って言うのが最高じゃないの



2015年10月10日(土)
『大逆走』

『大逆走』@シアターコクーン

赤堀雅秋全部のせ+新局面。そしてコクーンと言う劇場の機構を使って表現したいことの素直な欲求。心の底で願う美しさと、その美しさを表現することへの照れのせめぎ合いが凄まじい。無性にスズナリのTHE SHAMPOO HATが恋しくなった。

喪失を抱え崩壊した家族、孤独な若者、老人の純情。暴力、性衝動、敢えて口に出す汚物的な言葉。これ迄赤堀作品に出てきたモチーフが全編に散りばめられている。身体表現のエキスパートである小野寺修二をステージングディレクターに招聘し、かつての『立川ドライブ』(萌芽は『その夜の侍』)で試みた手法に磨きをかける。シンプルな骨組みセットを役者とダンサーたちが自ら移動、構築することで情景が出来上がる。

詩的な言葉を紡ぎ、それを対話によって日常と地続きにする。職人的な手腕を持っているが、実はとても作家性が強い。今回はそれが前面に出た。加えて破壊衝動がより露わになった。『その夜の侍』以降のふたつの路線。落語や似非歌舞伎的要素を用いた物悲しいコメディ、犯罪者とその周辺が陥る闇を偏執的に描写し、擬似実録もの。どちらも根は同じだと言うことを今回の作品で示した。

それを表現するために試みたことが混乱を呼んではいた。物語の強さか、現場で起こるマジックか。演劇、舞台表現を信じているからこその試みでもある。出演者たちと考え乍ら、ディスカッションを重ね乍ら作り上げられたと思われるシーンの数々は、巧者揃いなので非常に楽しめる。久々に観たい大倉孝二が観られたのも嬉しかった。池田成志の台詞まわし、趣里のダンス、濱田マリの声で奏でられる西の言葉。大高明良演じる器がちいさい男は、底知れぬ空洞を感じさせる。女の業と日々の暮らしが同居する魅力の峯村リエ、オフィーリアからあばずれ迄、秋山菜津子のザ・女優っぷり。奥行きを見せ、セットもない舞台にひとり立ってなお抜群の存在感(歌舞伎の所作もビシリとキマる)の北村一輝は受け身にまわっても周囲を輝かせる緩急を持っている、包容力溢れる座長。これらの個人技が堪能出来る。当て書きと思われる人物設定が痛々しく感じられるところすらある。痛々しいと言うのは所謂「イタい」と言うことではなく、当人にとって刺さるであろう、演じるにあたって傷つくこともあるだろうと思われる言葉のことだ。傷ついてもなお舞台で表現し続ける、それを観客に想像させることだ。

照れとのせめぎあい、と言うのは、美しいものを破壊したいと言う衝動でもある。たいせつにしたい美しいものを表現する迄に、のたうちまわるような葛藤がある。趣里さんの存在が大きく、彼女がいたからこそ赤堀さんが終盤のあのシーンを破壊せず届けたとも言える。言葉の劇作家と、言葉なき場面を立ち上げる演出家。そこにストレートな美しさが備わったことは新境地だと感じた。そして吉高由里子の声があったからこそ、クジラの台詞が瑞々しく響いた。

個人的にはとても愛おしい作品。成志さんの長いハムレット台詞が聴けたこともかなり嬉しいことだった。それにしても秋山さんの五郎丸(のルーティン)が観られるとは……日本は敗退(つっても3勝して予選敗退ってW杯史上初ですよ〜)したけど、上演期間中ずっとやるのかな。一瞬ですのでお見逃しなく(笑)。