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2015年03月22日(日)
高橋徹也『遠景の音楽〜弦楽四重奏のための夜想曲〜』

高橋徹也『遠景の音楽〜弦楽四重奏のための夜想曲〜』@下北沢SEED SHIP

はー、やっと今年初高橋さんですよ。どうにもこうにも日程が合わなくてな…行けてよかったー。今回タイトルが四重奏ってなってますがなんで? これ迄三重奏で、今回も発表されている編成には変わりがないけれど…ギターも入れて四重奏ってことかな? と思っていたらそのとおりだと教えて頂きました。有難うございます。

Vo、G:高橋徹也、Pf、Perc、Arr:佐藤友亮(sugarbeans)、Vn:矢野小百合、Vla:小林知弘、Vc:今井香織。

佐藤さんによる弦のアレンジが一回目二回目よりもブラッシュアップされたように感じました。と言ってもカンタンになった訳ではなく、構成としての複雑さは増しているように思う。ライヴを重ねることによってこれも出来る、これも出来ると、スキルの少し上を設定すると演奏のスキルもよりあがる。その繰り返しで演奏も曲も成長し、より緻密になっていくと言うか……。工芸品のように仕上がっていくアレンジの上で、メロディの美しさがより輝く。このシリーズライヴは、以前聴いていた曲の新しい魅力に気付くことが多い。音楽はいきものだなあと実感。

高橋さんの声が比較的高音なので、そこと被らない音域=中低音の和音が響くさまがとても気持ちいいのです。ヴィオラの音がとても映える。なんて言えばいいかな、体温に近い音なんですよね。肌に馴染む心地よさ。ヴァイオリン、チェロのソロは多けれどヴィオラ単体の音がこれだけ聴けるのは新鮮。その単音にヴァイオリンが乗り、チェロが乗り、和音になっていく展開にゾクリとする場面が多かった。そこへリズムを牽引するかのようにピアノが刻まれていくので、静謐な曲調であり乍らグルーヴが半端ない。おお、おおっと拳を握りしめてしまう。特に「大統領夫人と棺」。レコーディングver.ではベースが際立つ曲ですが、今回のライヴでは佐藤さんのピアノで展開によりドライヴがかかり、ドラマティックとも言える仕上がり。ほんとこのシリーズ、佐藤さんの貢献が大きい。

「サンディエゴ・ビーチ」に代表される組曲のような構成はクラシックなアレンジと相性がよく、一曲が世界そのもののように感じられることも。プレイヤーの集中度も高く、ブレイクごとに高橋さんがはー、とかふう、とか息を吐くのが印象的。そしてこの編成で演奏することからインスパイアされたのではないだろうか、「The Orchestra」が素晴らしかった。タイトル、アレンジ、そして歌詞。この弦楽シリーズから生まれたかのような響き。

全員着席での演奏でしたが、途中一曲だけ高橋さんが額装用のマットらしき紙枠を手に立って唄う場面があり、客席が「?」となる場面も。シリーズ一回目のライヴでも白地のキャンバスを抱えて唄う曲があったので、その流れかなと思う。ご本人のなかでコンセプトがあるのかも知れません。自分の目の高さにマットを掲げたりしていたので自画像のようにも映る。白地の画面に絵が入った、と言う感じだろうか。こちらから見ると高橋さんの自画像だけど、高橋さんから見ると画面に切り取られている風景は客席なわけで、いろいろと想像が拡がる印象的なひととき。

演奏中の緊張感が高いせいか、いやいつもか? MCはのんびりさんであっちこっちにとびます。いや本人のなかでは繋がっているんだろうが。歳とったせいか今日のことが楽しみで楽しみで、一週間前から今日(のライヴ)が終わるのがさびしくなってた〜とか仰ってました。それだけリハで手応えがあったんでしょうね、実際すごいライヴだった。だからこの編成でレコーディングを目指していると言われたときには嬉しかったなー。実現しますように! ことだまことだま! 音源ほしいです! いや実のところライヴテイクも素晴らしいのでライヴ盤とか…配信とか……夢は拡がりますねー! ことだまことだま!(再)

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セットリスト

01. 美しい人
02. ブラックバード
03. 真夜中のメリーゴーランド
04. 新しい名前
05. When I call your name
06. サンディエゴ・ビーチ
07. 雪原のコヨーテ
08. 遠景
09. Praha
10. 夜明けのフリーウェイ
11. 大統領夫人と棺
12. 夏の出口
13. 対岸
14. The Orchestra
encore
15. 別れの朝 歓びの詩

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・衣替えの音楽|夕暮れ 坂道 島国 惑星地球
“衣替えの音楽”かあ、ぴったりな言葉



2015年03月21日(土)
木ノ下歌舞伎『黒塚』

木ノ下歌舞伎『黒塚』@こまばアゴラ劇場

やー、待望でした。今回観て強く思ったのは、自分の母語…と言うか今現在使っている言葉、つまり現代口語に翻訳されたもので古典を観ると物語への理解度が一段と深まると言うこと。耳に入ってきた古語を頭の中で翻訳することなく反射で了解出来ると、それだけ注意を他のことに向けられる。物語の状況、登場人物の心情を、現代と照らし合わせ乍ら観ることが出来た。文献を読むと言う作業とは違う、実感としての頭への入り方と言おうか。まずテキストを読み込む、それを歌舞伎版(と言っても木ノ下歌舞伎も歌舞伎ですが、便宜上)の演出に惑わされず、現代でも成立する演出に落とし込んでいく、と言う木ノ下歌舞伎の徹底ぶりに唸ります。

阿闍梨祐慶ら訪問者は現代口語、老女岩手は古語を基本。その会話の不成立に、訪問者たちとともに観客はただならぬものを感じる。これはやっかいなところに足を踏み込んでしまったかも、と言う訪問者たちの困惑が観客にも伝わる。長唄は伝統芸能を踏襲、おどりは現代的、と言うミクスチャーっぷりも、その時代時代の流行と伝統を貪欲に吸収してきた歌舞伎のプロセスを考えれば納得のもの。むしろ目から鱗が落ちる。

歌舞伎版といちばん印象が変わるのは祐慶。道案内に迷った強力太郎吾をどやしつけたり、強力に続いてやんややんやと閨を覗いてしまうそのさまには軽率さや未熟さを感じ、考えてみれば彼は「修行僧」だったと納得させられてしまった。この閨を覗く場面は音楽はじめ演出も非常に現代的。時期的にも、ふた月前の人質殺害事件を思い出してしまう。殺害動画を見るか、見ないか。見ることは被害者への冒涜になるのではないか、あるいは加害者の挑発に乗ることではないか。見ないと言う選択肢は道徳心からか、故人への敬意か。あるいは見ることこそが真実を直視することか。祐慶を演じた夏目慎也は目下に対してのチャラさと高僧を目指す意気をいい塩梅で見せる。

そして中の段の全貌を今回ようやく目にして、岩手の見た地獄に愕然とする。そもそも『黒塚』の出典は安達ヶ原の鬼婆伝説だが、では何故岩手はひとを喰う鬼女になったのか。岩手を演じた武谷公雄、その慟哭に圧倒。武谷さん、昨年の歌舞伎ラボで怪演してらした方だ。追い詰められた人物が見せる表情、声、それでも続く人生を引き受けなければならない絶望…身体表現、発声と口跡ともに素晴らしい。その岩手と、大柿友哉演じる身重の娘の場面は出色。大柿さんも発声が素晴らしく、女性同士のやりとりとしてなんら違和感なく観られた。ところで武谷さん、汗の量もすごかった。登場時から汗だく。序盤暗いこともあって汗なのか涙なのか特効なのか判らなかったくらい。体調崩してるとかでなければいいが……。

幕切れが重い。旅の一行は、倒れた老婆を一瞥したあと家を出て行く。老婆はのそりと起きあがり、部屋の奥へと潜り込んでいく……彼女はこのあとも生きていかねばならない。祐慶が口にした希望はほんのひとときのものだった。岩手と出会ったことがその後の祐慶にどんな影響を与えたか、そして岩手はあれからどうやって生きていくのか考えてしまう。雨音の音響、暗闇をこそ活かす照明も素晴らしかった。



2015年03月15日(日)
BOOM BOOM SATELLITES『SHINE LIKE A BILLION SUNS PREMIUM GIG』

BOOM BOOM SATELLITES『SHINE LIKE A BILLION SUNS PREMIUM GIG』@EX THEATER ROPPONGI

昨年のクアトロ以来のワンマンかな。先月リリースされた『SHINE LIKE A BILLION SUNS』のリリースパーティとも言えるスペシャルライヴ。

中野くんから事前にアナウンスされていた新加入のバンドメンバーはギターの山本幹宗さん(ex. The Cigavettes)だった。このツイートだと演奏をしないパフォーマーと言う可能性もあったので(昨年のCDJでのポールダンサー出演のこととか思い出してて)何だろう? 誰だろう? 何するんだろう? と思っていた。そして川島さんの歌を前面に出した新譜を如何にライヴで聴かせるか、今回いちばんの期待と興味はそこにあった。成程ギターか!

と言う訳で幕開けの「SHINE」、川島さんは歌に専念。丸腰(と言ってしまう)! えーここで昔話をしますと、『UMBRA』リリース時ライヴで「INGRAINED」に弦楽クインテット入れたことがあったんですよね(Smashing Magにレポートが残ってたぜ! 丸腰の画像がないのが残念!→『Boom Boom Satellites at 渋谷AX(2001年3月23日)』)。川島さんはヴォーカルのみで。で、そのときの川島さんが、ギター持たずに歌だけってのにものすごく慣れてない感じで、動きがぎこちなくてぎこちなくて。ギターないだけでこんなに落ち着かないか(客も)! 丸腰! と散々笑ったことがありまして(ごめん。いや格好よかったんだけど板についてない感じがおかしくて…が、がんばれ! って感じで……)それを思い出してしまい若干ブルブルしたんですが、いやはや時間はひとに貫禄を与える。目に映ったのは実に堂々としたヴォーカリストの姿。

茶化して書いてしまったが真面目なことを言うと、その貫禄は人生経験や覚悟から自然に身に付いたものだと思う。気迫を前面に出している訳ではないのに、その佇まいには気圧されるものがあった。ステージのセンターにすらりと立つ。自然体で、構えがない。

実際この編成は相当アタリだった。『SHINE LIKE A BILLION SUNS』に収められていたあの歌が、目の前(もはや耳だけで聴いているのではないのだ)に美しく拡がっていった。

しかしここで邪念が入ったのだった。このまま全部歌のみでいくのかな? 実は川島さんの手が動かなくなっていて、以前のようにギターを弾けなくなっているとしたら? それは程なく的外れな考えだったと判明するのだが、落ち着いてステージを見渡してみれば川島さん用のアンプもちゃんとあるじゃないか。やっぱり川島さんの体調を全く気にせずにライヴを観ると言うことはもう出来なくなっている。余計なことを考えてはいけないなと反省する。しかしそのことで、今回のサポート加入がシンプルにバンドサウンドの強化としてのものだったと言うことに確信が持てた。

二曲目迄はアルバムと同じ曲順。構成も見事な作品だったので(実際これだけ一枚のアルバムを何度も通しで聴いた(聴けた)のは久し振りだった)このまま再現と言う形になるのかな、と思っていると以降シャッフルになる。このフックが「A HUNDRED SUNS」の前奏が鳴らされたときのインパクトに繋がる。わっ、と言う驚きと待望の声があがる。ハイライトでもある曲なので、アンコールに持ってくるのかなと思った隙にブッ込まれたのでこれは盛り上がりましたね。川島さんの歌声がいい状態で伸びる。EX THEATERの音の良さも実感。

正直に言うと、ブンブン(と言うか中野くん)が、こんなに“歌”を心に響かせる作品をつくるとは思っていなかった。川島さんの声の資質をどう活かすかと言うところに、中野くんの興味はあるように感じていた。言い方が難しいが、素材としての声だ。だからエディットも多かった。しかし今回のアルバムでは、一曲を唄いきるその流れをもパッケージしようとしているように感じた。エフェクトは多いが、歌声そのものの純度をあげると言う狙いで施しているように思える。「時間」と言うものをひしと感じる楽曲の数々。一曲が終わる迄の時間、アルバムを一枚聴き通す時間、それらを作ったふたりが直面し、闘ってきた時間だ。シンプルだけど高性能、しかし耳を澄ますと、歌の背後には緻密で強靭、広大なサウンドスケープ。作り手は勿論、聴き手にとってもこのアルバムは人生のサウンドトラックに成り得る懐の深さがある。それをより確信させてくれるライヴだった。

ステージアートは2013年の武道館でも印象的な映像演出を見せてくれたflapper3 inc.。こちらも音同様にシンプル、しかし緻密な仕事ぶり。ステージ上は楽器と機材以外はスタンドライトのみで実にすっきりしており、光と映像に呑み込まれるかのような体感があった。アンコールではステージ両端にポールスタンドが設置される。これは……と思ったら来たよダンサー! こーれーかー! と興奮しますねやっぱね。CDJには行ってなかったものでキャーキャー言う。てか実際目がいく…メンバー見たいのにどうしてもダンサーに目がいく……違う意味で集中出来ない(笑)。いんや格好よかった。最後の挨拶をしてハケるとき、川島さんがそのポールを掴んでくるり(と言うかとことこ)一周したのはウケてたわー。ポールダンサーみちゆき誕生。笑顔。

「僕は今日ここに戻って来れて本当にうれしい」。忘れられない、忘れたくない言葉だった。「OVERCOME」の速度で、また歩いていくのだ。

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その他。

・「HELTER SKELTER」で中野くんにギターソロがあった(が音がちいさめ。ここは山本さんくらい音大きくしようよこういうとこは奥ゆかしいな! PAの問題かも知れんが)
・て言うか「BLIND BIRD」ではコーラスもしてたよね。ビックリした! 普段からマイクのないところで唄ってること多かったけどちゃんと聴かせるものとして唄ってた
・「DIVE FOR YOU」、音響の妙もあると思うけど短調が長調になったくらい曲の鳴りが変わってた。うわこれめっちゃ好き
・川島さんが「BLIND BIRD」のアウトロ(確か)でタンバリンシャカシャカ振り乍らステージを練り歩く(と言うかうろうろしてたと言った方が的確か? twitterで「ふんわり歩いていた」と書いてる方がいて膝を打つ)場面、ちゃんとタンバリンの音拾えてたけどマイクついてたのかな。ほのぼのしい見掛けとは裏腹にこれがとてもいい効果になってた

・今回もライヴ中撮影フリー。twitterで探すとざくざく出てきます(公式のRTや#ブンブンサテライツでどうぞ)
・肉眼に記憶に焼き付けたいが記録として残しておきたい! と苦しんでるひとが多い(苦笑)このポジションをとれたからこそ撮らねば! と使命感に駆られている方もいて、実際迫真のショットを載せてらっしゃいました。いろいろ観られて嬉しい、おすそわけ感謝
・これも昨年のsceneみたいにまとめられるといいのだがどうかな

・終演後トイレに並んでたら前のひとたちが「中野さんが丸腰で跳ねまわってる(「FOGBOUND」のあれだと思われる)のを見てホッとしたよね」と話してたのでまたブルブルした。今回は丸腰がキーワードでしたね☆
・これにはつづきがあって「武道館では心配事やプレッシャー、作業の多さにそんな余裕もない、楽しんでられないって感じがしてたから」「ああ今回は本人も楽しめてるな、と感じた」。すみません盗み聞きしちゃいましたそして脳内で強く頷いてました
・今回終始ふざけ気味に書いてますが、それだけこちらにも心の余裕が出来た+明るく書かないとやってられんところもありまして。ご容赦くだされ

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セットリスト

01. SHINE
02. ONLY BLOOD
03. BACK IN BLACK
04. VANISHING
05. A HUNDRED SUNS
06. BLIND BIRD
07. OVERCOME
08. EMBRACE
09. NINE
10. FOGBOUND
11. MOMENT I COUNT
12. KICK IT OUT
encore
13. HELTER SKELTER
14. DIVE FOR YOU
15. BACK ON MY FEET
16. DRESS LIKE AN ANGEL

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・【ライブレポート】ブンブンサテライツ「ここに戻ってこれて本当に嬉しい」| BOOM BOOM SATELLITES | BARKS音楽ニュース

・BOOM BOOM SATELLITES、アルバム携え繰り広げた“再会”の夜 - 音楽ナタリー

・「今日ここに戻って来れて嬉しい」ブンブン、約1年ぶりのワンマンライヴで鳴らした未来の光 (2015/03/16)| 邦楽 ニュース | RO69

・BOOM BOOM SATELLITES@EX THEATER ROPPONGI | 邦楽ライヴレポート | RO69



2015年03月14日(土)
『十二夜 ―Twelfth Night』

『十二夜 ―Twelfth Night』@日生劇場

成河くん曰く「ジョン・ケアードが創るシェイクスピアのスーパーオーソドックス」な『十二夜』。思えばこの作品、戯曲を読んだ以外では歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』でしか観ていなかったのでいい機会でした。そしてパンフレットのケアードの言葉によると、「同じ役者にヴァイオラとセバスチャンをやってもらうのは僕にとって初めての経験。歌舞伎と一緒で、シェイクスピア時代のイギリスでも、訓練された男性が女性を演じてきましたが、日本では男性を演じる訓練を受けて来た宝塚がある。ならばそのスキルを活かさない手はないな、と」。十年越しでふたつの演出を観られてとてもよかった。

スーパーオーソドックスであるからこそ物語の芯が見えてくる。同時に時代が反映される。オーシーノが一席ぶつ「女とは」に傷つくヴァイオラや、今見ると現代的とも言える積極的なオリヴィア等、はっとするところも多い。まさに双子、鏡の構造を持つ作品なのです。喜劇なのに悲劇として観ることも出来る。宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ」が脳内でかかりますよ…つらい……。

幕切れ舞台に集うのは、秘密を暴かれ恋に破れ、自分の願いが叶わなかった者たち。なかにはその本心を誰にも(そう、当人にさえ)気付かれないまま恋を終える者もいる。彼らを前にフェステが唄う。登場から浮かない顔で、帽子をとって頭をかきむしっていたフェステ。ひとに見られていないときの彼はいつもそうだった。笑いを必要とするひとの前でだけ、彼は活き活きと跳ね回る。道化と言う仮面の下に憂いと諦めを秘めている。彼は恋に破れた者の心を知っている、諦めなければならないことを突きつけられた者の心が解る。だから彼らに寄り添い歌を唄う。その声は慈愛に満ち、哀切に響く。

喜びと怒り、悲しみと楽しみは一元的なものではなく、時代や受け手のバックボーンにより変化する。光の当て方によって、ガラリと印象が変わるのだ。日時計と言う美術にも象徴されるそれらを逃さず掬い取る演出、多用される言葉遊びを的確に日本語化する翻訳者、言葉の両面を観客に伝える役者の実力。それはもう見事なカンパニーで、シェイクスピアが時代を超えて上演され続けていく謎を、こうやって時代時代に生きる者たちが解き続けられていくのだなと感じ入った次第。

シリアスもコメディもお手のもの、オリヴィア役の中島朋子さんやマルヴォーリオ役の橋本さとしさんの達者っぷりに唸ります。酸いも甘いも噛み分けた人生、ひとことひとことが沁みるサー・トービー役の壤晴彦さん、フェイビアン役の青山達三さん。いいコンビ。軽妙な人物たちに囲まれ、終始生真面目な人物である主人公は大変だと思いますが、音月桂さんはブレないヴァイオラ/セバスチャンでした。ヴァイオラは「男性を演じる女性」、セバスチャンは「男性」。女性であり宝塚出身である音月さんが演じやすかったのはセバスチャンの方ではなかっただろうかと思いますが、彼の出番はそう多くない。衣装の装飾の一部を変えるだけと言う早替えで、メイクも変えずに即その人物だと周知させる演技は見事でした。歌も素敵。そしてアントーニオ役、山口馬木也さんなー! あの物語る目! セバスチャンへの思いはどこ迄のものなのか、解釈の匙加減が非常に複雑な役柄。その複雑さがひしと伝わりました。秘めるって苦しい。ちなみに終演後読んだパンフレットの人物相関図では明記されておりました。

今作を観に行くことにした決め手は成河くんでした。彼が演じたフェステ像については書いたとおり、いやはや本当に舌を巻く。「あいつは誰だ? 何者だ?」と初見から引き込まれる役柄を全うしておりました。今回は人間の役ではあるけど、それでも異人の空気を纏う。舞台上の登場人物たち、そして舞台と客席の架け橋となり、作品世界を文字通り縦横無尽に駆けまわる。観たいものを見せてくれると同時に、予想のつかないくらい遠い世界をも見せてくれる。『成河一人会』でもうどうしよ〜となっていたギター演奏も堂々としたもの。そしてあの歌! 声! 本当に素晴らしかった。

観終わって思う。衣装や装置、演技の型の違いはあれど、『NINAGAWA 十二夜』もスーパーオーソドックスだったのだ。戯曲を読み解き、舞台上に立ち上げる。そのシンプルな作業がどれだけの知識と感性を必要とすることか。演出家と役者の仕事とは、と改めて考えさせられました。

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・秘密と影〜日生劇場『十二夜』 - Commentarius Saevus
強く頷いたレヴュー。
ちなみに日時計の美術、自分の席からは完全に死角になってしまう箇所が多々あった。ラテン語の銘文、全く見えませんでした……日時計の動きとともに姿を現したり隠したりする人物の入れ替わりは楽しめたんだけど、登場とともに笑いを誘うマルヴォーリオの場面等は全く乗り遅れてしまうブロックだった。これは残念だったな

・『十二夜』を彩る衣裳の世界 - げきぴあ
衣裳とともに美術も手がけたヨハン・エンゲルスは、昨年亡くなったとのこと。つまりこれらは彼の遺作。素晴らしい作品を有難うございました。
そこでまた蜷川さんを思い出してしまったりもした。朝倉摂さんの作品を今また使っていることね。追悼と継承と

・【実録】ロンドンの裏面史 - イギリス文学・文化関係の本の紹介
シェイクスピア作品に時折出てくる「くまいじめ」って何なの…そういう遊びが当時あったんだろうけど、可哀相な予感しかない…と保留にしたままだったのを、今回思い切って調べました。うあーやっぱつらいやつだったー(泣)
貴族の遊びかと思っていたら、「イギリス庶民の気晴らし」だって! ヒー! しかも「はるか昔のことではなく、今でもそのようなことが行われている(可能性がある)」と……うわあああああ

・歌舞伎美人『NINAGAWA 十二夜』
おおう公式まだ残っていた。配役も見比べ直してニヤニヤしました。そうそう、マライアにあたる役は亀治郎(当時。現猿之助)さんがやってたんだよねーあれすっごくおかしかった…やりたい放題でもってってたよね……。そして尾上松也くん出てたんだ! わー気付いてなかったー筋書発掘してみよう……



2015年03月11日(水)
National Theatre Live IN JAPAN 2015『欲望という名の電車』

National Theatre Live IN JAPAN 2015『欲望という名の電車』@TOHOシネマズ日本橋 スクリーン4

ロイヤル・ナショナル・シアター上演作品が日本で観られる! しかも『欲望という名の電車』を! と言う訳で行って参りました。平日夜の日本橋は建物に桜の映像がライトアップされていて(桜フェスティバルの一環だそう)華やか。

演出はベネディクト・アンドリュース、ブランチはジリアン・アンダーソン、スタンリーはベン・フォスター、ステラはヴァネッサ・カービー。上演劇場のヤング・ヴィック・シアターは可動式の舞台機構で、今回は円形仕様。中央の舞台をぐるりと囲む形で客席ベンチが据えられている。客席はおよそ八分割されていて、ブロック間に役者も出入りする通路がある。これはもう鈴木勝秀版・青山円形劇場での上演を思い出さずにはいられないところ。そのうえこの舞台、まわるのだ。役者だけでなく、美術も全方位晒される。よって書き割り等の装置は使えず、徹底したリアリズム。そしてその装置や衣裳は現代のもの。2DK程のアパートの一室、調度品も小綺麗で整然としている。ブランチはワンピースとジャケット、サングラス姿でルイ・ヴィトンのバッグをキャリーケースに積んで現れる。

それに反して台詞は当時のまま。ブランチはコードレスフォンで電話を掛けるが、繋がるのはミッチの家ではなく交換手。スタンリーはボウリングに行き、家に仲間を呼んでポーカーに興じ、その間女たちは映画を観に出掛ける。この時代錯誤とも言える初期設定が、戯曲の普遍性と強靭性をより一層浮かび上がらせる。ブランチとスタンリー、ブランチとステラ、ステラとスタンリーが交わす、戦争にも喩えられる激烈な言葉のやり取りは、初演から60年以上経った今でも何もかもが有効なのだ。台詞の耐性にそろそろ期限が近づいているのは、「偉大なるアメリカ合衆国」の国民である誇りくらいなものではないだろうか。

名前はいくらでもつけられる。DV、依存症、虚言癖。しかし、そこには絶対に当事者以外の介入を許さない壁がある。常に外部が意識される。家の外、家族の外、街の外。外部は常に闇だ。闇にはさまざまなものが潜んでいる。ご近所の目(=それは観客の目にもなる)、痴話喧嘩を繰り広げるユーニスとハベル、街の女、行商人。ブランチがスタンリーについて並べ立てる言葉は観客の爆笑を呼ぶ。円形仕様のため、画面には笑う観客の顔も映っている。そしてカメラは、絶妙のタイミングでその話を立ち聞きしているスタンリーの表情をクローズアップする。劇場中継と言うフォーマットでしか観られない入れ子的なマジックは、スクリーンの前の観客に鏡として映る。おまえもスタンリーを笑うのか? と。差別され、嘲笑される“ポーラック”は、妻にさえ豚と呼ばれるのだ。その妻ステラは、タイトルでもある欲望を体現する。吠えるステラはブランチがスタンリーを指して言う“ビースト”そのものだ。人間が持つ多面性が乱反射する。そのどこに焦点を絞るか? この作品は演出により、役者により毎回新しい発見がある。

浴室が「見える」、新聞集金人がコワルスキ家を訪問する直前街の女にからかわれる、あの名台詞(と言ってもこの作品は全編名台詞なのだが)「死の反対は欲望」を盲の花売りに語りかけるブランチ。これらの演出は初めて観た。ブランチとステラの言い争いがこれだけ激しいものも初めて観た。それらを得て強く思ったのは、この作品はステラが初めて家族を葬る話なのだと言うことだ。苦しみ抜いて死んだデュボア家の人々を葬儀のときにだけ訪ね、ベルリーヴを失ったことを事後に知るステラが、初めて家族が死に向かうさまを目撃し、初めて自らの意志で家族を送り出す。家族に引導を渡す痛切さを、これ程激しく感じたのは初めてだった。ヴァネッサ・カービー演じるステラは、喜怒哀楽を強く押し出す、生命力溢れる女性像。それは前述の台詞から解釈すれば、欲望の権化と言うことだ。タイトルロールとも言える見事な演技。

ブランチ役は、彼女こそブランチにふさわしいと思える役者と、彼女が演じるステラも観てみたいと思わせる役者がいる。ジリアン・アンダーソンは後者。医師に美しい発音で「ミス・デュボア」と呼びかけられたとき、その瞳に宿る一瞬の輝き(これを捉えたカメラに感謝!)は、死に向かう人物が一瞬見せた眩さだった。パンフレットに解説を書かれていた方は、この表情を見て「ブランチの更生」と言う希望を感じたと言う。成程そういう解釈をも引き出す表情だった。二方言話者(bidialectal)だそうで、声色も言葉遣いも変幻自在。スタンリー役のベン・フォスターは、前述したように差別され、嘲笑される傷付いたスタンリー像が新鮮でもあった。ブランチに対する感情に、憎みや怒りよりも悲しみや諦めがつきまとう。あの瞳には惹きつけられた。終盤ブランチを襲う場面で、彼女の顔をドレスで覆い隠す仕草も幾通りもの解釈が出来る。多面的な人物像で、興味深いところ。

ヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランドの映画、ジェシカ・ラングとアレック・ボールドウィンのTVドラマ(90年代はVHSがレンタルにあったが、DVDは出ているのだろうか)を観ていたが、思えば日本語で上演されない『欲望〜』の舞台(中継)を観るのは初めてなのだった。「死にたくない」と訳されていた台詞は「Don't Let Me Go」で、ふと『わたしを離さないで』の原題(Never Let Me Go)を連想し、はっとしたのは新しい体験。「豚」を「pig」と「swine」で言い分けているのも今回初めて気付いた。あの流れから言うと「swine」の方がもっと侮蔑的なんだろうなあと思った…侮蔑的って言うか、知性のないおまえにはわからんだろって言いまわし。「盲が盲の手をひいて」が「The blind are leading the blind!」ではなく違う言葉に言い換えられていた(確か)ところには時代が反映されているか。
(20150313追記:あと「極楽(天国)」は「Elysian Fields」なのね。単純に「heaven」だと思っていた)

今回の演出は舞台袖がないので幕間以外の転換(家具の位置を動かしたり小道具を持ち込んだり)は役者たちが自ら行う。スタンリーに襲われたブランチはそのまま舞台に残るので、最後のあの美しい門出はどうなるのかなと気になった。果たして乱れたメイクはそのまま。思わずフランシス・ファーマーを連想してしまう。そしてブランチとフランシス・ファーマー両方を演じているジェシカ・ラングってすごいね……と思ったりした………。

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その他。

・ブランチの浮世離れした言いまわしはウケてたなー。ステラがケーキにたてるロウソクの数とかも。こういうとこは日本とも変わらないのね
・しかしなんで笑ったのか判らないところもあった。アドリブってんじゃなくてこちらからすると普通の受け答えに感じたところにドッと笑いが起こったり
・と言えば役者がマイク装着してたのはちょっと気になったな。ステラが着替えるときノイズが生じていたし。あのキャパでマイクはないだろう…収録のためのものかな

・スタッフクレジットにケーキ作成者(社?)があったのににっこりした。白くてかわいいシンプルなケーキ。劇中つけっぱなしのロウソクがどんどん短くなってってちょっとハラハラした
・ロウソクと言えば、鈴木勝秀版『欲望〜』でミッチを演じた田中哲司さん、素手でロウソク消してたよね! あれすごく印象的だった。どうやってたのか未だに気になる
・そうそう、パンフに篠井英介さんのお名前が載っていてほろり。杉村春子、大竹しのぶと、個性の違う俳優が「いずれも役に対する情熱がほとばしる演技だった」って

・休憩時間15分、その後二幕が始まる前に劇場紹介と芸術監督、演出家、スタッフのインタヴュー込みで202分。いんやこれが全く長く感じないのよ…この作品が好きだからってこともあるだろうが
・休憩中は、同じく休憩中の劇場がそのまま映る(画面隅に休憩時間のカウントダウン表示)。これをぼんやり観るのもなかなか楽しかったです
・余談だが公演初日前に「上演時間三時間越えです!www」みたいに鬼の首とったみたいに流れてくるツイートすごくいやなの…きらいなの……
・長尺の強さ、面白さってあるんだよ……
・ヴィック・シアターはラインナップと言い劇場機構と言い魅力的! 行ってみたいを思わせられる場所でした

・ナショナル・シアター・ライヴ 2015 OFFICIAL SITE『欲望という名の電車』

・Miller, David / A Streetcar Named Desire by Tennessee Williams full text
PDF直結
原書。扉にアランのモデルとも言えるハート・クレーンの詩が記されています

・韓ガーデン<コレド室町2>
おまけ。TOHOシネマズ日本橋が入っているビルの地下にあるお店、ここのトマト漬がすごくおいしいー。キムチって言うよりタテギ漬けって感じ。持ち帰り出来ますぜ

(20150313追記)
・The Departure: a short film starring Gillian Anderson

akiさんに教えて頂きました、有難うございます! ブランチが欲望という名の電車に乗り、墓場という電車に乗り換えて、極楽という駅に降り立つ、その前日譚



2015年03月07日(土)
『地下室の手記』

カタルシツ『地下室の手記』@赤坂RED/THEATER

初演の一部ふたり芝居から完全ひとり芝居に。

美術(毎度の土岐研一さん)がより洗練されたような、と言うのが入場して舞台をひとめ見た第一印象。調度品や、その配置が整然としているさまがとても印象に残った。主人公は清潔で、整頓好き。基本的には自分を律して生きている。カップラーメンにお湯を入れて放置、と言った初演でのずぼらさがなくなった。考えてみれば、甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれていた母親が亡くなった今、引越し後の地下室をあの状態に保てているのは感心するところではないだろうか。母親と住んでいた頃はゲロまみれになった服をタンスに押し込んじゃうくらいだったのにね(笑・でもその前にちゃんとビニール袋に入れてキッチリ結んでいたな)。

自分を律することが出来ると言う優越感。自分を否定した相手はその自分に値しない人物だ、自分を受け入れ(ようとし)た相手は自分を肯定してくれる人物だ。都合のいい造形により、思い出は美化される。訪問者りさの実体がない今回は、その痛みがより剥き身。生中継を始める(手記を公開する)と言う主人公の動機がより明確になったように感じた。彼は律していた自分のことなぞもういいわ、と言う状態になったのではないだろうか。「ここから出ねえぞ!」と宣言した彼の部屋は、これから散らかっていってしまうのかな。

情緒的な音楽がかかって、いい話で終わるようなふりしてそれを喝破する幕切れは爽快なようでいて苦笑を誘う。それは再演でちょっぴり、いや、ますます顕著になる。そしてふんぞりかえる主人公を見て、やっぱり感傷的になってしまうのだ。それは主人公の姿に、自分の片鱗を見てしまうからだ。人間って150年経っても進歩ないのねと身につまされることしきり…と人類のことみたいに話を大きくしてしまう自分が嫌ー! と言う罠。はい、これは変わらない自分のことですねショボン。

再演につき流れが判っているので、ニコ動等の現代的モチーフの使い方や「おれは人間をやめるぞ!」「エルフがドワーフに」等前川さんの引用の妙味もより楽しめた。ニコ動のコメントが大量に流れ、画面を埋め尽くす様子がホワイトノイズのように見えたのは新しい収穫。あとパッと見より段取りがかなりありそう…舞監さん大変そうだなあと思ったり(笑)。音響と照明のタイミング、殆ど手動で合わせてってるよね? いくら稽古で詰めてても臨機応変必須、その鬼っぷりに恐れ入る。そういえば安井さんはかつて鬼の役をやっていたな(どうでもよい連想)。

前川さんの3月8日のツイートを読んで強く頷く次第。そして「再演されることで完成に近づいていく戯曲」と言うものは、それだけ芯が強いのだ。