白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2008年05月21日(水) 当たり前のいとなみ

昨日、友人から第二子妊娠の知らせを貰った。他人事ながら嬉しくて泣きそうになってしまった。

友人は昨年、授かった子を死産している。私が娘を産む少し前のことだ。妊娠時期が近かったため「子供達が同じ学年になるよねぇ」などと楽しみにしていただけに、死産の知らせは私にとってもショックな出来事だった。私自身、切迫早産で安静にしていたりした時期があり「もし何かあったらどうしよう」という想像をリアルにしていた…と言うこともあってか、友人がどれだけ哀しかったかと思うと、かける言葉も見つからなかった。友人とはそれから1度会っているのだけど、哀しみが癒えないまでもしっかりと事態を受け止めていて、上のお子さんの育児に励んでいた。

もしも、私が娘を無事に出産出来ていなかったら、彼女のようにしっかりと立ち直れなかったかも知れないな…と思う。「こんな哀しい思いをするなら、もう妊娠なんてしたくない」と思ってしまったかも知れない。死産とか、流産は世間的には「よくある話」だし、それを乗り越えての妊娠出産も世間的には「よくある話」だ。しかしそれらは、自分の身にふりかかった時「よくある話」から「一大事」へと変化する。友人がそれを乗り越えることが出来て本当に嬉しい。

どんな人にも哀しい思い出はある。それは当たり前のいとなみの中に、ひっそりと存在していて、普段は滅多に顔を出さない。別の見方をするならば個々の人々が紡ぎ出す「当たり前のいとなみ」は、それぞれに哀しい思い出を含んでいて、だからこそ愛おしいとも言える。

大人になってみて「普通に暮らす」ってことが、どれだけ大変で大切なのかをしみじみ感じる。うっかりすると忘れてしまいがちだけど、それは簡単に手に入る物のようでいて、実はそうでもなかったりするのだ。

私が…そして、私の知る人達が「当たり前のいとなみ」を続けていけるといいなぁと思う。もちろん「すべての人が」そうであるのが理想ではあるのだけれど。そして、当たり前のいとなみのありがたさを忘れないようにしなくちゃなぁ…とも思う。昨日は本当に嬉しかった。友人のお腹に宿った新しい命が健やかに育つよう願いつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
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