白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2005年11月02日(水) 哀しいという感情

哀しいという感情は他の感情とは較べ難い、極めて異質な物ぢゃないかな…と思う。

たとえば……だ。自分以外の親しい人が「楽しい」とか「嬉しい」って感情を満喫していたとする。親しい度にもよるのだが、自分に起こった出来事でなくても比較的簡単に「我がことのように嬉しい」なんて感情移入が出来るんぢゃなかろうか。これは「怒り」も同じだと思う。テレビやなんかを観て見ず知らずの他人の不幸に熱い憤りを感じるのは、やはり自分以外の人間に共感しているからだと思う。

ところが「哀しい」という感情は、その他の感情に較べて共感しにくいような気がする。たとえば友人に哀しい出来事が起こったとする。「可哀想になぁ」とか「言葉もないわ…」なんてくらいは思えるけれど、それを「我がことのように哀しい」と思えるかと言うと、そんなことは不可能なのだ。だけど「哀しい本を読んだりTVを見て泣くこともある」と言いたいところだが、それは自分自身にその出来事を重ね合わせ、自分に降りかかる哀しみとして自己陶酔しているだけではないかなぁ。

人は哀しみ無力だなぁ……と思わずにはいられない。それを回避する術もなければ、上手くあしらう術も知らない。それどころか、自分以外の哀しみに大しては、残酷なまでに鈍感なのだ。結局のところ人間は根っこのところで「自分が1番」なのだと思う。だから他人の哀しみに対して、真の意味で共感さえ出来ないんじゃなかろうか。

他人の哀しみを前にして、冷淡で無力な自分に愕然とすることがある。

その感情に共感することは出来ないまでも、想像力を最大限に働かせて行動する…ってことが優しさなんだろうか。本当の優しさってなんなんだろうなぁ……と、思春期の高校生のような青臭いとを考えてしまった。

話はまったく変わるけれど、今日はまっこと草臥れた。朝早くからかなり田舎にある現場に出かけて、大きな工場の屋根に昇った。刺激的だったがクタクタである。明日は思う存分寝坊をしよう……ってことで今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2003年11月02日(日) 恋する婆さま
2001年11月02日(金) それは錆びた楔のように

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