「良かった探し」とは、ひと昔前に流行ったアニメ番組『愛少女ポリアンナ物語』のヒロイン、ポリアンナ(原作の小説は『少女パレアナ』)の得意技。どんな逆境にあっても「良かった」を探して三千里。原点は聖書にあるようだが、その辺の事情は割愛。いつも笑顔のポリアンナ嬢は善良な日本人のハートを鷲掴みにしていた……ように思う。
どんな状況下においても「良かった」を探すのは素晴らしい事だと思う。せっかく生きなきゃいけないのなら、しかめっ面でいるよりも、笑顔で過ごした方がいい。これは幸せに生きるための知恵だと思う。笑う角には福来るではないけれど、物事を良い方に考えて前向きに生きてこそ幸せも訪れようと言うものだ。
だが、ふと思うのだ。「良かった探し」にも弱点があるのではないか……と。
良かったを探すということは、自分に折り合いを付けるということに通じるようにも思われる。「良かった」を探すことで根本的な問題から目を背けているような気がするのだ。たとえば、何年か後になって「あの時は、本当にあれで良かったと思う?」と聞かれたとして「本当に良かったと思う」と即答できれば合格だけど、思わず口篭ってしまうようなら「良かった探し」は失敗だったと言っても過言ではない。
「良かった探し」を全面否定するつもりは無いけれど、物事の本質から目を背けたり、適当に妥協したりするのは、いただけない。ふと自分を振り返ってみるだに「良かった」を隠れ蓑にして、あえて目を瞑ったり、妥協していたことが多過ぎるような気が。もっと真摯に生きなくちゃなぁ。
「良かった探し」もほどぼどにして、見るべきものはシッカリと見つめていきたいものだ。ここ何年間、ちょっと自分自身に対して手を抜いていたと言うか、ズルくなっていた部分があることに、ふと気が付いた次第。「私も大人になったからねぇ」なんてのは言い訳。こいつは改めなくちゃなぁ…と思ったところで、今日の日記はこれにてオシマイ。