お気に入りのサイトを徘徊していると中島らもの死について語っている人が思ったよりも多かった。「へぇっ。この人も好きだったんだ」などと再発見しつつ、その呟きをキャッチした。
どこも申し合わせたようら「ろくでなしだったけど愛された作家だった」てな感じの事が書かれてあった。実際、その通りだと思う。ろくでなしだったし、愛されてもいた。そして私も愛していたし、もちろん今も愛している。
それにしても「ろくでなし」という人種は、どうしてこうも愛を得る能力が高いのだろう?
死んだ父も、相当なろくでなしだったが、葬儀の際、男泣きする仕事仲間や友人などがいたのに驚かされたものだ。亡父は家族だけでなく周囲の人に迷惑を掛けまくって死んだので「葬儀に出てくれる友人なんているのかなぁ……」と思っていたのだが、一部の人は、亡父の「ろくでなし」な部分をひっくるめて愛してくれていたらしい。
まっとうな良い人よりも、ろくでなしの方が愛されるような気がする。
まっとうな良い人は「愛される」と言うよりも、むしろ「好かれる」とか「慕われる」感じなのだ。「好かれる」とか「慕われる」ってことが「愛される」よりもレベルの低いことだとは言わないけれど、遮二無二な感情を持たれにくいには違いない。
自称「まっとうな良い人」である私は、そんな「ろくでなし」達を苦々しく思うと同時に、羨ましくも思うのだ。そして、ろくでなしだと分かっていても愛してしまったりもする。願わくば私も「まっとうな良い人」を卒業して、ろくでなしになりたい。
ろくでなしになるには、どうしたら良いのだろう。悪いことをするから「ろくでなし」って訳でもないし(←それだと単なる悪人である)なかなか難しいものだなぁ……などとツマラナイことを考えてみたところで、今日の日記はこれにてオシマイ。