白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2003年04月21日(月) 逝く春

この春は、いつになく多くの人を見送った春だった。

母の従兄弟。Nさんの母上。
そして日記には書かなかったが、向いの婆さまの義息子。
そして私は1人勝手に凹みがちな春だった。
他人のことで、凹むというのは、無責任な感情のうねりだと思う。
これは自分を卑下しているのではなくて。
現実問題として考えるとき、自分の身に降りかかったことならば
凹むより、なにより目の前の事項を処理していかなければならないから。

今日は母が、向いの婆さまの娘さんと電話で話をしていた。
「人間がいなくなるのって大変なことですしね」
いやはや……まったくもって、その通り。
部外者はお葬式に参列して、泣いてお別れすればオシマイだが
家族ともなると様々な書類の片付け、遺品の整理、諸々の人付き合いなど
それは、それは大変だったりするものなぁ。
当然ながら、その日限りで、バイ・サラバーイ……てな訳にはいかない。

お悔やみの定番に「お疲れが出ませんように」ってのがあるが
誰が考えたのか知らないけれど、上手い言葉だと思う。
事態が落ち着いたら、ドッと疲れが出るだろうことは承知の上だが
「死んでしまった人よりも、生きているあなたが心配です」というような
控えめな優しさが込められているような気がする。
ま。定番として使われる場合は、そこまで考えて使わないかも知れないけれど。

閑話休題。

明日は愚弟の手術日である。
患部の状態がよければ、1度の手術で次のステップの手術へとすすめるのだが
イマイチ状態が良くなければ、また時間をおいて手術をすることになる。
神様、仏様、イエス様……誰でもいいので一発OKにしてやってください。
などと、思わず神頼みをしてしまいたくなる。
愚弟が事故にあった時は「命さえ助かれば」と思っていて
その後は「1本でも指が残っていてくれたら」と思っていたのになぁ。
余裕が出てくると、人間って生き物は、欲の皮がツッパッてくるようだ。

それでもやっぱり「誰でもいいので、ここは1つ……」などと祈りつつ
今日の日記は、これにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2002年04月21日(日) 真面目を恥じちゃいけないよ♪

白蓮 |MAILHP