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2024年11月27日(水) ■ |
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『君の心にRUN-NEW! パール兄弟2024 |
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『君の心にRUN-NEW! パール兄弟2024』@Shibuya CLUB QUATTRO
昨年も「TRON岬」や「青いキングダム」で、あのシンセの音が聴こえないことに愕然としたのだった。まだ慣れないな。
----- サエキけんぞう(vo) 窪田晴男(g、cho) バカボン鈴木(b、cho) 松永俊弥(drs、cho) --- Guest: いまみちともたか(g、vo) 鈴木桃子 from COSA NOSTRA(vo) 小田玲子 from COSA NOSTRA(vo) -----
再来年のデビュー40周年を渋公で祝うべく、着々と準備を進めているサエキさん。チェキ会を始めたことには驚いたけど、YouTubeチャンネルも開設し、ファンサとプロモーションに抜かりない。ライヴでは段取りもしっかり、MCも進行も考え抜いているのはいつものことで、その分相手の話を流したり強引に片付けたりするのもいつものこと。慣れているこちらは苦笑するばかりなのだが、今回は若干ヒヤヒヤしましたわ。ゲスト相手にそれかい! ひとの話をちゃんと聞け! コンプラ的にも結構ギリギリな言動ありで、サエキさんそういうとこ本当に危うい。渋公で同じこといったら炎上しそうだよと真顔になる。皆さん寛大で有難い話です。
それはともかく、サエキさんって今がいちばん声出てるし安定してますよね。ボイトレの効果が確実に出ている。マイケル・ジャクソンやカート・コバーンを手がけた方が先生だとか。マイケルのことはずっといってたけど、カートもだったのか。てかカートもボイトレしてたんだーという驚きがあった。
YouTubeチャンネルの告知、物販紹介、新曲の紹介とその歌詞の説明、振付指導、ゲストの紹介と告知、そして衣裳+メイク替え。サエキさんにはやることがいっぱいある(笑)。でも今回は、窪田さんのセッティング待ちの場面が多く見られた。一昨年亡くなったパール兄弟の末っ子、ヤッシーこと矢代恒彦の穴は大きい。昨年開催された『ありがとう、ヤッシー』のとき、窪田さんは困り果てているようだった。このときのライヴでは吉田仁郎さんがサポートで入り、音源から抽出したヤッシーの音と共演する場面もあったが、今回はガチで4人(トリオ+ヴォーカル)。バンマスでもある窪田さんはバンドアレンジとともに自分のセッティングもかなり変えたようで、本番数日前に「(当時と)位相が違うんで、それの補正に今ほんっとに時間がかかってて」「なんとか当日迄に間に合わせようと思ってますが」「必死にやっておりますので」なんてこともいっていた。試行錯誤が続いていることが窺えた。
エフェクターを多用しギターの音色をカラフルに、というのはパール兄弟の基本に立ち返ったようでもあるけれど、ヤッシーのいた時間は本当に長く、それを聴いてきたこちらの時間も相応に長い。音の不在により、彼の貢献を思い知らされる。しかしバンドは逆行を拒み、前に進もうとしている。
上手側で観ていたのだが、「色以下」のとき姿が見えなくなったのは座奏していたんだろうか? あれのアルペジオからエフェクター切り替えてカッティングにすぐ入るの、たいへんそうだもんね。「バカヤロウは愛の言葉」のイントロを1オクターブ下げていたのは何故だろう? まだまだ試してみたいことがあるのかもしれない。必死の形相が垣間見えたけれど、演奏はやはり“あの”窪田晴男の音だった。サエキさんに「当日に間に合ったね」といわれた窪田さんは「まだ途中だから。最後迄行けるかわからないから」なんて応えていた。聴き手は出されたものをおいしくいただいたけど、どうだろ、本人は納得いくものが出来たかな。フロアから何度も「ハルヲー!」と野太い声がかかっていたことが印象的。
衣裳が私服(?)だったことにもちょっと驚いた。これ迄はシャツだけでもお揃いとかにしてたよね? 普段着のようなフーディやシャツ+ジーンズで、彼らはステージに立っていた。皆さん自分に似合うものを知ってる感じでオシャレでしたね(窪田さん以外。いや、この方は独自の道を進んでいるので……)。松永さんの髪色は理想だなー。ロマンスグレー通り越してシルバーフォックスみたいな白髪。 (20241201追記) なんと今回の衣装は オシャレ番長の松永俊弥セレクトだったとのこと。え、えーと窪田さんのも!?
広く見えていたステージの空間は、ゲストを迎えることで埋まっていった。鈴木さんと小田さんが登場すると、場が一気に華やかになる。高いトーンの、芯のある歌声。COSA NOSTRAが再始動、翌々日に自分たちのライヴがあるのに来てくれた。桜井鉄太郎繋がりでもあるが、ナイトクラビングでの交流は長い様子。こういう夜遊びの時間をともに過ごした友人がいるっての、いいよねえ。かつてパール兄弟には、ゆうことあけみというコーラスサポートがいて(彼女たちも夜遊びの流れでスカウトしたんじゃなかったっけか)、ライヴでは彼女たちの歌声がフィーチャーされた楽曲もあった。そのことを思い出した。「フラミンゴひとりぼっち」(レア!)ってこんなに女声が似合うのね! リリースされて36年(!)、ここでまた新しい発見があるとは! いやーいいもの聴いた。
そしていまみちともたか! ストラト! ホントずっとブレずに格好いいな! 窪田さんのアコースティックユニットshiroとの交流や、デビュー前バカボンと同じコンテストに出ていた! という秘話も披露され(「楽屋で『マンブル・マーフィーってバンドやってましたよね』って訊かれてビックリした!」そうです)、BARBEE BOYSのデビューが1984年でパールより早いという流れから、イマサを先輩と呼び終始敬語で話すサエキさんに「先輩先輩っていうけどそっちの方が歳上じゃない!」「恐縮してるんですよ!」とドギマギするイマサという貴重なものも見られた。「(別のバンドで)先にデビューしてるじゃない!」とツッコまれ、「ええ、ホントのデビューは1980年……」とモゴモゴ答えるサエキさんという図にもウケた。ハルメンズのことですね(笑)。
それにしても、同年代(てかふたり、同い歳なんですね)のギタリストとギラギラバチバチの窪田晴男は初めて見たかも。同年代のバンドは「(悔しくなるので)聴かない」というアティテュードだったそうで、「ライバルじゃなくて敵だよ敵!」なんて珍しく口調もぞんざい(笑)。イマサの「新宿 Feather Touch」を紹介するときも「ワタクシの師匠筋であるルー・リードの『ワイルドサイドを歩け』、ゲイは都会に来いよ! 自由があるぜ! という歌ですけども、これはそのゲイの親の視線から書いたものなんですよ(ここでフロアからどよめき)! カーッ、よく思いついたなと! 褒めたくないくらいいい歌なの!」と悔しがっていました。いやー珍しいよ、こんなにキーッてなってる窪田さん。
それに応えてイマサがいうには「僕も窪田くんもさ、東京出身でさ、でも新宿行くとさ、地方から出てきてイキってる子ばっかりでさ、でも話聞くとさ、実家から仕送りもらったりさ、米送ってもらったりしててさ、たまには帰省した方がいいかなあなんていってる訳」「男と女のことばっかり書いててもさ、何無理してんだっていわれる年齢だしさ」。語尾に「〜さ、」がつくのが都会の子って感じだわ…VIBRASTONEの「Hoo! Ei! Ho!」みたいだわ……などと思う。ちなみにこの「新宿 Feather Touch」、つくった当時やってたバンド、ヒトサライに持って行ったんだけどヴォーカルの椎名純平が唄いたがらなかったのでソロに入れた、とのこと。それを受けて窪田さん、「ああ〜あの子にはまだ早いんじゃないかな」だって(笑)。
何故こんなにイマサと窪田さんが長々話していたかというと、サエキさんがお色直しで引っ込んでしまったからです。窪田さん曰く「やりたいんだって」「無謀だよね〜」。この1曲のためだけの衣裳替えとメイクだったので、終わったらいそいそとハケ、しれっと元の姿になって戻ってきた。珍しく説明が全くなかった。こちらとしては敵同士(笑)の会話を沢山聴けて楽しかったです。
リハは勿論してるだろうけど、イマサは譜面もなしで(メンバーは譜面用意してるもんね)インプロで絡んでいた部分も多かったような。それがまた格好よくてね。「アニマル銀行」「快楽の季節」のツインギターにはシビれた。「この鉄壁のリズム隊と演奏出来るなんて」と仰ってて、こっち迄うれしくなっちゃった。男性陣には握手、女性陣にはハグ、窪田には握手とハグをして去って行ったジェントルイマサでした。
昨年初披露された「僕らはここにいる」は、去っていく友人や恩人への歌でもある。岡田徹さんや教授の話も出てしみじみ。長く続けるって本当にたいへんなことだし、続くこと自体が奇跡でしかないんだなと思った夜でした。で、奇跡が続くとこんな夜が訪れる。これもまた奇跡。やっぱすごいバンドだな。個人的ハイライトは「真赤なリヴォルーション」。窪田、バカボン、松永による演奏の地力に脱帽。凄まじすぎて「うわ、うわわわ」と思わず驚嘆の声が漏れた程でした。
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イマサのtwitter、本文がいつも五七五なのね。こういう拘りも格好いいよねー。COSA NOSTRAのおふたりも素敵!
・クアトロの水回りの老朽化が激しく(トイレの閉鎖具合よ……)、ここもそろそろ建て替えなんじゃなかろうかとドキドキする。クアトロは残って欲しいな。渋谷内でうまいこと移転出来ないかしら
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