I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME
|
|
2023年10月22日(日) ■ |
|
維新派『トワイライト』(映像) |
|
維新派『トワイライト』(映像)@東京芸術劇場 シアターウエスト
いやホント、そう思わせてくれた。配信をPCの画面で観て、ヘッドフォンをして聴くのとはまた別の体験。
東京芸術祭2023内のプログラム『EPAD Re LIVE THEATER in Tokyo〜時を越える舞台映像の世界〜』から。舞台芸術アーカイブ+デジタルシアター化支援事業であるEPAD(Eternal Performing Arts Archives and Digital Theatre)は、2020年に活動をスタートしました。折しもコロナで劇場が閉まり、演者も観客も立ちいかなくなっていた頃。ずっと進めていたものの公開がたまたまこのタイミングになったのか、これはいかんと突貫で取り掛かったのか、今となっては記憶の彼方。たった3年前のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じます。これ迄も様々な作品を配信してきましたが、今年度からは劇場での上映会にも本格的に取り組んでいるとのこと。
今でも年に数回「維新派観たいよおおお!!!」とキエーとなるもんで、今回の上映には小躍りしました。二度と観られないことが分かっているだけに、とても貴重な機会。というのも、維新派の「二度と観られない」は、数ある舞台作品のなかでもちょっと特殊だからです。
まず「ヂャンヂャン☆オペラ」というあまりにも独自なスタイル。大阪弁ケチャ、独自の混成言語。5拍子、7拍子の変拍子による所作。あまりに独自なスタイル故、体得に時間がかかります。そして上演場所。野外に拘り、その土地で暮らす人々と交流し、歴史や民俗からストーリーを組み立てる。巨大な舞台美術を建設する。「何もない全くの更地の状態から、舞台、客席、宿泊場所までを作り、上演時はカーニバルの異空間を作り上げる。公演後は釘一本残さず、再び更地に戻す」(オフィシャルサイトより)。一から街をつくるようなものです。そしてそういうことが出来る場所は、離島だったり、湖上だったりする。観に行ける人は限られている。
そんな唯一無二の世界を創りあげた維新派は、主宰の松本雄吉さんが2016年に亡くなったことで、2017年いっぱいで解散しています。オフィシャルサイトは残っているものの、活動終了のお知らせは消え、アーカイヴページだけが残っている。なんだか維新派そのものが幻だったかのよう。台本は残っているけれど、あの“街”を再び創りあげようと思う酔狂な人・集団が、今後現れるとは思えないのです。
土地の風景を含めた、壮大な作品世界を記録しておく意義を制作者側も感じていたであろうことから、映像自体はかなり残っており、『トワイライト』もDVDが販売されています。EPADは今回、維新派が所有しているハイヴィジョン映像を8Kにアップコンバートし、音響はイマーシブサウンドにリミックス。めでたく劇場での上映が叶いました。2015年に上演された『トワイライト』は、松本さんが手掛けた最後の作品(2016〜2017年の『アマハラ』は、構想途中で亡くなった松本さんが残したノートや資料をもとに、メンバー全員で完成)。イマーシブサウンドを手掛けたのは、現場での音響をデザインした田鹿充さん。
・田鹿 充┃EPAD┃作品データベース 一覧を観てあー! と思う。維新派だけでなく、飴屋法水、マームとジプシーの作品も。野外劇場での仕事も多い。信頼しかない!
-----
会場は奈良県曽爾村健民運動場。日没前に開演し、迫る夕闇とともに時間を過ごす。グラウンドにもともと設置されているナイター照明も効果的に使われる。場面によって雨が降っている。ぬかるんでいる地面と乾いている地面が交互にある。複数の公演を収録し、一本の作品にしたようだ。
野外だと聴き取りきれないこともある台詞がちゃんと届く。内橋和久さんの生演奏が、微弱音から大音響迄ダイナミックに響く。屋内の密閉された空間ならではの、頰に振動が触れるような迫力。
維新派の作品は通常の劇場とは比較にならない程広い空間を使うので、最前にいる演者の発声と最奥のそれにはディレイが発生しそうに思うのだが、それがないのがずっと不思議だった。今回は映像作品になっているので、ライン録りした音をディレイなく鳴らせる。しかしこれは、実際に現場で聴いてもそうだったのだ。『トワイライト』は今回が初見だが、他の作品でも、いつもそうだった。演技エリアの中間くらいの場所に、左右1台ずつスピーカーらしきものが置いてあるのが見える。それをモニターで使っているのだろうか。
そして演者は全員がマイクを装着していると思っていたが、アップの映像で観るとそうではなかったことが分かる。所謂台詞をいう演者の他に、同じフレーズを謡うグループの、それぞれ数人だけがマイクを着けている。“ケチャ”は芯となるソロイストとコーラス隊に分かれていたということだろうか? それがあのマジカルな響きになるのか……そうすると動きにもディレイが起きそうなのだが、やはりそれは感じられない。ただ、こちらはリズムに合わせてひとりずつ移動していくものが多いので、ズレがあったとしても輪唱のように観ることが出来る。
それにしてもどうやったら客席迄ズレなく届けられるんだ? 仕組みがやっぱり分からない。
アングルが変わるというのも映像ならでは。定点で観る“生の舞台”とは大きく違うところだ。アップが観られる。演者たちの白い衣装に、白塗りの顔に、泥の沁みが少しずつ増えていく。ぬかるみに滑る脚が見える。虫が飛んでいるのが見える。白く覆われた顔に、揺れる表情が見える。ワタルが、ハルが、あんな表情をしているとは。これを現場で目にすることは難しかっただろう。
漂流、移民。常にあるキーワード。ボートピープル、キューバから逃れてきた同性愛者。1980年代からあるモチーフは、上演された2015年でも、その2015年から8年経った今でも有効なのが悲しい。人間に飽きたから鳥になる。それが憧れをもって語られるのが悲しい。そうして旅団は去っていく。
-----
自宅で配信を観られることはとても便利だし、有難い。しかし、劇場の良さは多くの観客=見知らぬ他者とともにその劇世界を体験出来ることだ。終映後、無言で退場する人々の顔を見る。笑顔のひと、放心したような表情のひと。それぞれの感想、記憶を抱えて帰路につく。私たちは一緒に維新派を観たのだ。
あと天候と気温に左右されないのはいいね、トイレが! とか切羽詰まらないで済む(笑)。まあ雨や寒さも維新派の体験と記憶なのだが。
ロビーでは当時のパンフレットや台本がほぼ半額で販売されていた。在庫セールの意味合いもあったのかも知れないが、今あの台本(!)を実際に見られる機会は少ないので有難い。楽譜というか図面というか……ここ迄システマティックに書かれているなら、再演、出来なくはないかも? と思う。しかし今、この国にそんな余裕があるのかとも考えてしまう。場所探し、セットの建設、演者のレッスンと集団の維持。クリエイションに関わる人々の関係性。長い時間と多額のお金が必要だろう。いつかどこかに、それを実行に移す酔狂なプロデューサーが現れてくれればいいな、なんて思う。
それはかつての維新派と、その観客がひとり残らずこの世を去ってからでもいいのだ。一冊の台本から、誰も観たことのない世界が生まれる。それは現在の演劇も同じだからだ。
-----
・2015年 トワイライト┃維新派オフィシャルウェブサイト 画像も素晴らしいので観て〜
・トワイライト┃EPAD┃作品データベース 村の歴史や、口承による300年の伝統を持つ舞いを作品に取り入れ、この曽爾村で上演することが重要な作品となりました。 作品全部がこんな風に創られていたので、土地の歴史そのものも作品になっている。「二度と観られない」は「余所で観られない」でもある。 デジタルアーカイブデータは早稲田大学演劇博物館のAVブースで視聴可能です(要予約)
|
|