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2022年02月26日(土) ■ |
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倉田翠 × 飴屋法水『終着、東京 三重県足立区甲府住吉メゾン・ド・メルシー徒歩0分、入浴中』 |
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倉田翠 × 飴屋法水『終着、東京 三重県足立区甲府住吉メゾン・ド・メルシー徒歩0分、入浴中』@BUoY
そこには身体が新しいひとも、身体を使いきったひとも、生まれる前のひとも死んだあとのひとも皆いる。四つ打ちのステップ、八拍子のストンプ、潰れるペットボトルのリズムに乗って歩く。走る。『ドナドナ(donor-donor)』をちょっと懐かしく思い出した。
京都発表会『三重県新宿区東九条ビリーアイリッシュ温泉口駅 徒歩5分』(ダイジェスト映像)、映像作品『三重県新宿区東九条ユーチューブ温泉口駅 徒歩5分』、そして終着はここ、東京BUoY。ようやく現場に立ち会えた。
入場すると、スマホに繋いだイヤホンで何かを聴き乍ら、ステップを踏む倉田さんの姿が目に入ってくる。イヤホンからの音漏れはない。その音は彼女にしか聴こえていない。ダンスのようで、ボクサーのフットワークのようにも見える。BUoYは銭湯だった地下室の機構をそのまま残したスペースだが、その浴槽の上には家の模型が吊るされている。チェーンで吊るされたそれは、くるくると回っている。
いつの間にやら現れた飴屋さんが、フロアをうろつき始める。目のところだけ穴を空けた無印良品の紙袋を被っている。くるみさんが浴槽前に置かれたタップボードに立ち、八拍子のリズムで力強いストンプを始める。ダン! ダン! と足音が響く。もはやどこから開演か判らない。それは飴屋さん(倉田さんもそうなのだろう)の作品ではいつものこと。日常、すなわち生きることと地続きだ。
飴屋さんから挨拶と上演にあたっての諸注意。いつの間にやら紙袋は被っていない。こんなときに、寒いところ来てくれて有難うございます、感染対策ガイドラインに基づき上演します、客席との間隔は2mなのでテープを張って、そこから出ないようにしています、僕らPCR検査や抗原検査をしています、観に来てくださった皆さんもそうした検査や、ワクチン打ったりとか、体調が悪かったら行かないことにするとか、それぞれやってくれていると思います、等々。あ、あと、出入口が一箇所しかなくトイレは上階にしかないので、具合が悪くなったとか、急に行きたくなったってひとは、僕らがやっている前を通ってっちゃっていいので我慢しないで行ってください。というのもあった。
こうした飴屋さんの挨拶はいつものことで、その内容はあたりまえのことだ。しかし、出演者が事前にそう断っておくことで、場の雰囲気はだいぶ変わる。上演途中で出ていくなんてという非難や、どうしたんだろうという不安により、集中力を削がれることもない。ひとの身体なんて、いつも思い通りにいく筈がないのだ。
公演は、互いを信じることにより成り立っている。飴屋さんは、私たちを信じるといっている。これもいつものことだ。そしてそれは、倉田さんが作品と観客に向き合う姿勢と同じだった。ふたりがともに作品をつくるのは必然だったのでは、とすら思う。それにしても、倉田さんの作品とご本人を実際に観るのは初めてだったのだが、その張り詰めた姿、動き、声に驚かされる。
死んだ両親、死んでいる自分、生まれるまえの娘。遭遇した差別の場面。ここにいる彼女は死んでいるのか、話題に出てきた人物は生きているのか。その空間や時系列はどこ迄が虚構か、現実か。
『わたしのすがた』(2010)に登場した父親の死から『バ ング ント展』(2005)が発想されたように語られる。くるみさんのともだちは死者として語られる。マイクパフォーマンスは『教室』(2010)からだったろうか? ダンスは『ブルーシート』(2015)。自転車で転倒するのは『マームと誰かさん・ふたりめ』か。桜井圭介さんのツイートを見て、ああ、『転校生』(2007)! と膝を打つ。
さまざまな引用がある。人生を振り返っているようでもある。これではまるで、終わりの時間が見えているようではないか。身体に負荷をかけ続ける飴屋さんの体調のことは気に掛かっているが、それが飴屋さんの作品なのだ。本人にとって、こうするしかない表現方法だ。あらゆる安全確認とケアをして上演は行われている。しかし、思い通りに身体がついていくかは判らない。
そんな思いに捉われていると、倉田さんに肩を掴まれる。薬物依存症リハビリ施設のメンバーは倉田さんの弟となり、東九条の住人たちとなる。繰り返し流れる「君は天然色」は死者を思い書かれた歌だ。倉田さんは思い出を纏い、剥ぎ、また纏う。稽古着、喪服、曰くつきのニット。服だけでなく自らの皮膚をも剥ぐようなその激しさ、確かなダンスのスキルをも破壊しかねないエネルギー。その負荷もまた、自身を傷つけかねない。
そんなふたりの前で、くるみさんはまっすぐ立っている。ふたりのやることをしかと見、話すことをしかと聞いている。事前にアナウンスされていなかった出演者、ミントくん(岩瀬圭司)をくるみさんがインタヴューする。お父さん、お母さんとともに体験したことを語る。倉田さんと、京都の友達のことを語る。まっすぐな声で目にした差別、自分の将来を語る。彼女は境界を越える可能性を持っている。
「家」の美術がとてもよかった。銭湯跡のBUoYで入浴ならぬ水責めに遭う家。荒波になすすべもない家。音響設計も、もともと演劇をやる場としてつくられていないスペースを見事に演劇空間に変えていた。
シリアスでヘヴィーな日々に、joyがあるのも事実。飴屋さんとくるみさん、そしてミントくんのパレードの愛らしいこと。葬式あるあるの話のところではちょっと笑ってしまったなー。確かに喪主が飴屋さんだと葬儀屋さんも話しづらかろう……。オズの魔法使いは彼らに問いかける。ライオンは、ブリキの木こりは自らに問いかける。ヘヴィーな日常にときどき訪れる、ハッピーなひととき。人生はその繰り返し。倉田さんは「明日も同じことをやる」という。場面は冒頭に戻る。イヤホンを耳に入れ、ステップを踏み始める。だが、そのイヤホンにスマホは繋がっていない。そこにどんな音楽が流れているのか、彼女だけが知っている。
観客は彼女だけの音楽を想像し、自分だけの音楽を想像する。そうすることで、私たちは友達になれるだろうか。
「有難うございました」という言葉は、共演者にも、スタッフにも、そして観客にも贈られる。成程、死は身体を使い切ることだ。以前飴屋さんは「自殺はしない」といっていたことがあるが、それは身体を使い切るつもりでいるからだ。冒頭、飴屋さんはちいさな声で「健康がいちばん」といっていた。このひとの作品を見続けたい。それは恐らく「死」をも見届けることになる。そのとき、どう誠実な観客でいられるかを考えている。
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・アーティスト・インタビュー:“誰とつくるか” 倉田翠が問いかける新領域┃Performing Arts Network Japan 「現実に起こった本当にしんどいこと、涙が出ちゃうようなことに舞台は勝てないことをわかった上で、私も含めた彼らが“生きている”現実とフィクションの距離をもうちょっと近づけたいと思いました。」
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