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2020年12月27日(日)
さいたまネクスト・シアター『作者を探す六人の登場人物』

さいたまネクスト・シアター リーディング公演『作者を探す六人の登場人物』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール


手に台本を持っているけど、もはや誰も見ていない。彼らのことだ、おそらく皆、稽古初日には台詞が入っていたのだろう。1訊けば10返ってくる(そう鍛えられたであろう)役者たちとのクリエイションは演出家にとっても楽しい時間だったのでは、などと勝手に想像する。ネクスト・シアターと小川絵梨子、初の手合わせ。

作者のルイージ・ピランデッロはジュネ、イヨネスコ、ピンター、べケット、ストッパード、オールビー等の作劇に大きな影響を与えた……なんていわれた日にゃあ「それ大好物やがな!」と喰いついた。ここに挙げられた劇作家全員、最低でも一作は観ているものだ。なんだかんだで観劇というものを趣味にしてもう30年近くになるということもあるが、それにしたってこの30年間、いやもっと以前からずっと、いつでもどこかで上演され続けている「不条理演劇」というものが、いかに役者と演出家にとって普遍的な魅力を持つかということに改めて感じ入る。

そして不条理は、イコール現在の話なのだ。いつでもどこでも。今回このテキストを選んだのは小川さんだと思うが、丁寧かつ的確なテキレジによりそのことがより浮かび上がった。

「〜を演じる俳優たち」、「〜が行われる舞台でのリハーサル」。蜷川幸雄の演出作品でよく使われた手法だ。大道具係役の手打隆盛が「稽古場」という舞台に上がり、存在しない「観客」に向かって挨拶をする。観客たちからは自然と拍手がおこる。二重の意味を持つ粋な幕開け、劇場と役者に再会出来たうれしさで胸が熱くなる。震災からすぐあとの『たいこどんどん』で蜷川さんが見せた演出でもある。装置や照明を瞬時に揃えられる稽古場という設定にもオマージュを感じる。

さて、そんな現在と地続きの場へ生身の「登場人物」が現れた場合、役者と演出家は必要とされるのか? 「私どもは舞台のために生まれてきたもので」「(演出家は)作者になりたいのよ」。かくて稽古場は混乱に陥る。「想像(創造)という言葉ほど私どもにとって残酷なものはないのです。何故なら私どもは今ここで、実際に生きているのですから」。想像力を信じて舞台に立つ役者、舞台を観る観客にとってこれほど切っ先鋭い言葉もない。演劇はやっぱり面白い。

演出家と役者にダメ出しを続け、本意が伝わらないことに疲弊していく登場人物たちがとても魅力的。久々ネクストの公演に登場した父親役・松田慎也の貫禄、怒りで生命力にガソリンを注ぐ継娘役・佐藤蛍。ふたりの対決が白眉。演出家役竪山隼太の落ち着いた演技に好感。

衣裳がとてもよかった(演出家のコート、父親のボーラーハット、マダムの靴(にストラップではなくビニールベルトが巻いてあったところにも「……舞台!」と泣きそうになった。第三舞台の刷り込みですわこれ)。継娘と女児のフレアスカートの丈も絶妙。プロンプターの服装もわープロンプターだーって説得力)けれどクレジットがなかった。役者が自分たちで揃えたのだろうか。

個人的には小川さんの演出とは相性が悪いので身構えてもいた。成河さんが以前「好きな作品なのに、好きな出演者、演出家なのにどう〜も面白くない、なんでだろうって思うことあるでしょう? 皆さん出演者や演出家で自分の好みが決まると思ってるでしょう、違うんです、実はそれはプロデューサーの力です」といっていて、理解しつつも納得したくない部分もあった。でもやっぱりそうかもなあ。今回の公演は心底楽しめた。さい芸のプロダクションにはいつも興味を惹かれるし、だからこそ決して近くはない、交通の便もいいとはいえない、劇場の行き帰りに寄るところもそんなにない(……並べ立ててしまった。ご、ごめん! 住むにはとてもいいところなのではと思います!)与野本町迄出かけていくのだ。建造物のフォルムも素敵です。この劇場には思い出がありすぎる。

という訳で、制作陣含めたさい芸というハコに愛着がありすぎるので、あの奥行き深い暗闇から登場人物たちが浮かび上がった瞬間に反射で涙ぐんだ。『美しきものたちの伝説』思い出しちゃったな。

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こういうのも含めて好きな場所。ここで芝居があるときはいつも早めに行って館内をうろうろしてる。劇場迄の道にある、シェイクスピアの台詞プレートや手形レリーフが汚れてしまっているのにちょっと寂しくなったりもする。このご時世だ、手入れをする時間も人手も足りないのだろう


そうなのよ。しずえさんのクイズ観るのが電車乗るときの楽しみだったので実は戻ってほしい〜