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2020年07月05日(日)
『大地 Social distancing Version』

『大地 Social distancing Version』@PARCO劇場


2011年3月11日に、PARCO劇場で『国民の映画』を観た。そして今回、コロナ禍により閉鎖されていた劇場が再スタートしたタイミングで最初に観たのも三谷幸喜作品。思えば、劇場が封じられてから最初に観た配信リーディングは『12人の優しい日本人』だった。決して三谷作品の熱心な観客ではないが、歴史に残るといってもいい非常時に直面したとき、何故か彼の作品が傍にある。

以下若干ネタバレあります。

三谷さんによるご挨拶(音声)で幕開け。「(現代演劇の礎である)築地小劇場は銅鑼の音とともに開幕しました、再びこの劇場の幕を銅鑼の音とともに開けたいと思います」。黒子が登場、一瞬の静寂、そして打ち鳴らされる銅鑼からの暗転。流石に涙出た。

映画スター、世界中を旅したパントマイマー、大道芸人、劇団主宰、女方、演劇を学んでいた学生……さまざまな出自を持つ役者たちが「反政府主義者」として捕らえられ、収容所に送られてくる。指導員と取引する。政府役人の目を欺く。役者たちはさまざまな役まわりを演じることで生き延びようとする。人間としての尊厳を踏みにじられるような日々をなんとかやり過ごしていた彼らは、ある日ひとつの選択を迫られる。

“Social distancing Version”とサブタイトルがつき、当初の演出とは違うものになった。正直観ている側も、役者同士の距離が近づく度にヒヤリとする。しかし、その「距離を保つ」という条件を逆手にとった仕掛けが面白い。収容者たちの居室が区切られていること。豚の飼育作業から帰ってきた者には臭くて近寄れないこと。やがて観客は、その条件をある種のスリル(というと語弊があるかもしれないが)とともに楽しめるようになる。

ひとりの若者が大人たちと一定期間過ごし、痛みを伴う喪失や苦い思いを経て成長する。三谷さんの作品ではよく見られるフォーマットだが、その登場人物とともに、観客も成長する(ワタシは若者じゃないがな…いくつになっても学び成長することは出来るのや……)。役者たちは理不尽としかいえない理由で「反政府主義者」というレッテルを貼られる。そして「政治の仕組みが変わって」そのレッテルが剥がされる。何が起こって「仕組み」は変わったのか? それは示されない。作品は煽動しない。答えを明示しない。答えは自分で探すのだ、想像力をフルに使って。「利用するんだよ」という言葉の意味を考える。

劇場の灯が消えても、台本をとりあげられても、役者とロウソク一本の灯があれば芝居は出来る。しかし、そこに観る者がいなかったら? どちらが不在でも成り立たない。この舞台にはそれが描かれていた。三谷さんは今作を「俳優についての物語」といったが、これは同時に「観客についての物語」でもあった。

大泉洋は、演じる側として観客の役目をも果たす。三谷さんいうところも「いわゆるあて書き」、悪いヤツじゃないんだけど、なんとなく疎ましがられる。毒づき、ボヤき、手段を選ばず、それは自分のためでもあり、仲間のためでもある。でもその仲間は、彼のことを仲間を思っていないかもしれない……そんな悲哀も抱えている。たちの悪い『泣いた赤鬼』の青鬼のよう。一人称が「アタシ」なところにもニヤニヤ。与えられる役と自身のギャップに葛藤する映画スター役に山本耕史。腹のなかが見えないところがまた“らしい”。女方という職業故ある役割を負わされる竜星涼の激情、「おじいちゃんの狡猾」をかわいげで表現する浅野和之に唸る。そして相島一之の信念の強さにすら揺さぶりをかける三谷さんの怖さにまた唸る。

そして今回の「成長する若者」、濱田龍臣。かわいがられ、守られる存在だった収容所時代と、その追憶を辿る現代(だろうか?)。ふたつの時間を演じるのは彼だけだ。ひとは変われるが、そうは変われない。気の優しい、声がちいさい(そう感じる。しかししっかり台詞は通る)彼が誰かを、何かを守るときが来たとき、どんな行動をとるのか。次世代に何を伝えてくれるのか。それを見たいと思わせてくれる演技でした。今回の座組最年少、2000年生まれの19歳(!)。『龍馬伝』のあの子がこんなに大きくなって……! 今後も楽しみ。

幕が開いた一週目ということや、これ迄とは違う注意点が多い舞台ということもあり、演者にはまだこなれていないところがあったように思う。思い切った動きや発声の範囲を測っているように感じられたところもある。これはやる側も観る側も、徐々に慣れていくしかないだろう。何しろこんな環境で舞台が上演されるのは初めてのことなのだ。演劇や物語を全く必要としない政府の役人が、役者たちの他愛のない(そう描かれていたと思う)芝居によって右往左往させられる場面に胸がすく。非常時におけるエンタテイメントの必要性、という難題には、これからも向き合っていかなければならない。

荒涼とした大地に建てられたバラックのような収容施設(美術:堀尾幸男)は、八百屋舞台によりどの居室も客席から見えるようになっている。奥であればある程勾配が厳しいと思われるが、その最奥中央が浅野おじいちゃんの居室だったというところが恐ろしい(笑)。寒空の自然光を表現する服部基の照明も素晴らしかった。

終演後鳴りやまぬ拍手にまたもや三谷さん、「カーテンコールはありません、皆さっさと帰ってください! 役者さんは出てきません、浅野さんは次回の上演に向けて眠りに入りました!」なんて憎まれ口。笑い声とともに、客席からの拍手はしばらく続いた。あの拍手は「なんかくれ、おまけくれ」といった悪ノリの拍手ではなく、舞台を開けてくれたひとたち、舞台をつくりあげてくれたひとたちへの、心からの感謝と激励の拍手だったと思う。

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役者だけでなく「劇場」の容貌も観られるのがうれしいティザー

・【舞台動画あり】三谷幸喜の新作舞台『大地(Social Distancing Version)』が開幕へ! 初日前のフォトコールをレポート┃SPICE
・PARCO劇場再開!劇世界とコロナ禍が交差する、三谷幸喜「我ながら先見の明あり」┃ステージナタリー


出演舞台が次々と中止になり、悩み悲しみつつも配信等新しい試みに次々と取り組んでいる篠井さんの様子はtwitterで毎日のように目にしていた。そしてこうして舞台に関わっておられる。知ることが出来てうれしかった。
一緒に写っているのは来場者登録のご案内。万が一感染者が出た場合連絡がとれるように、観劇日時、席番、個人情報等を提供するようにとのこと。今後必須になっていくのかな

・入場時に検温と手の消毒、というのはもはや何度も経験しているが、靴底消毒(劇場入口だけでなく、トイレ出入口にもあった)は初めてだった。だよなー鳥インフルが出た地区とか小笠原諸島に入るときもそうだもんなあ。この徹底ぶり、信用したいし感染者出てくれるなと祈るような気持ち

宝塚の観客たちのことを思い出しました。劇場も出演者もこれだけ手を尽くしてくれている、当然こちらも徹底して用心せねばという気持ちになる

・さて新しくなったPARCO劇場。場内の雰囲気はそのまま、キャパは増えた。あの段差がなく非常に観づらいXA〜XC列がどうなっているかはわからないが、自分がいた後方席は千鳥配置で段差もあった。前列のひとの頭も被らず観やすい。
ロビーの動線がちょっと不思議、というのは前からそうか(笑)。トイレが劇場の下階になっていて道に迷う。ホットプレートで温めるロールパンのホットドッグを売るカフェはなくなっていた。歌舞伎座の甘栗売場がなくなったのと同様、こういうのってジワジワさびしいな

・もともとの公演期間分のチケットは全くとれなかった。今回とれて驚いたんだけど(職場で当選メールを開けて、思わず「まじで」と口に出た)……「遠方(県をまたぐ)なので行けない」「遠方じゃないけど渋谷には行きたくない」「同じく劇場には行きたくない」等の要因で、観劇に二の足を踏んだひとが少なからずいるからだと思われる。一度足が遠のいた観客たちはどうしたら戻ってくるか、制作者はこのことを考えていかねばならないんだな……

・PARCO劇場では新潟中越地震が起こった日に『夜叉ヶ池』を観ている。開演直前に本震、その後度々揺れが起こった。あのときの松田龍平の動じなさと武田真治のアドリブ力、今でも鮮烈に憶えている。彼らのことを信じよう、彼らが芝居を止めたときが避難するときだ。PARCO劇場のスタッフならきっと観客を安全に誘導してくれる。そう信じようと思った。これは今も自分のなかで続いている

・こういうとき、いつも脳内で聴こえてくるのは上田現の「ラルゴ」だなー。「だましてもいいぜ ずっと待ってる」