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2019年03月16日(土)
『母と惑星について、および自転する女たちの記録』

『母と惑星について、および自転する女たちの記録』@紀伊國屋ホール

再演。母と三女が初演から変わり、準備中のPARCO劇場から紀伊國屋ホールへ。戯曲の幹の太さに感じ入る。それにしてもこれと『世界は一人』を同じ月に観るとなんというかショック療法的な……効いたわー。「これからは、私を生きる。」という宣美のコピーは秀逸。

あれから三年。こまごまとした台詞が現在を取り込み、三姉妹のリズムあるやりとりが心地よい。そだねー、サイテー↓。次女のモノローグをLINEのやりとりと重ねる表現は今でも効果的。彼女たちの結束と反発から、異文化、異星人である母親といういきものを見る。母という謎は塵となって宇宙に舞い上がる。寛容とは、赦すことではなく諦めも含まれる。期待しないということでもあるが、それに罪悪感を覚えなくてもいいのだ。ただ、母親が端々に見せていた寂しさをどう受け入れていくかが、三姉妹の宿題になる。三人は、ひとり残らず、絶対的に母親の影響を受けている。そのことに疚しさを感じなくてもいい。私がわるいっていうの、私のせいだっていうの。『世界は〜』でもきかれた台詞は、「ここで謝ったら、あんたこれから生きていけんようになるよ!」という台詞に繋がってくる。娘たちは母を異国に散らし、未来へと生きていく。

初演時あまり気にならなかった(私が)、母娘以外の人物についても考える。森の中にいた男は結局誰だったのだろう? 三女が追い出したあの男の本性は? 長女と次女は全くといっていい程触れない父親について。長女を待つ彼、現実を見ようとしない次女の夫、避妊をしない(?)三女の彼。そして、祖母=母親の母親が囚われ続けた原爆体験と信仰について。昨年『消えていくなら朝』を観たこともあり、蓬莱竜太が描く家族と宗教には今後も注目していくだろう。

田畑智子と鈴木杏の頼り甲斐のあること! 昔の話を出して恐縮だが、地震の中での上演となった『夜叉ヶ池』での田畑さんのことが印象に残っているので、立派になって……などと思う(何様)。同様に、高校の制服のまま舞台を観に来ていた鈴木さんのことも憶えているので、すっかり叔母のような気持ちです。斉藤由貴も凄まじかった(=素晴らしかった)が、今回のキムラ緑子もすごかった。鬼の形相から、毒親なんて名付けでは括りきれない人間の業が浮かび上がる。安易な名付けではカテゴライズ出来ない思いを描くのが作家なのだという思いを強くする。

初演では志田未来(の役)が妊娠するというシチュエーションに若干うろたえたのだった。末っ子らしい危うさがあり、姉たちから見ればこんなこどもが? という衝撃を覚える印象だった。今回三女を演じた芳根京子には、母親との修羅場を乗り越えた強さを感じた。身長と顔立ちのせいだろうか。演じたときの年齢はそう変わらないのに、受ける印象は随分変わった。初演時は「この四人でなければ」と思ったものだが、今回「この四人だからこそ見られるものがあった」と思う。いつかまた、再演されるのを待っている。

そうそう、音楽(国広和毅)について。初演のとき『阿修羅のごとく』のテーマ曲を思い出すなあと思ってそのまま忘れていた。あれはトルコ軍楽の「Ceddin Deden」だった。三姉妹が訪れたのはイスタンブール。成程!


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・紀伊國屋ホール久々だったんだけどそうでした、老舗だけあってここって千鳥配列じゃないし席間も狭く段差も小さいのであった。二列前のひとが結構な座高であー見づらいなと思っていたんだけど、前列のひともそうだったらしく、休憩中に隣の友人らしきひとと席を替わったんですね。その替わったひとというのがもう、高座高、前のめり、動きまくる、という輩であった。舞台全体を観ることは一度も叶わなかった。久々に辛い環境だった……作品が素晴らしかっただけに残念。こればっかりは運が悪かったなー