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2018年02月07日(水) ■ |
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『スリー・ビルボード』 |
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『スリー・ビルボード』@TOHOシネマズ新宿 スクリーン7
Peace, Love, Empathy.
なんだかカート・コバーンの遺書を思い出してしまった。主人公の娘──レイプされ火をつけられ殺された娘、この事件が物語の発端になる──の部屋に『IN UTERO』のポスターが張ってあったからだろうか。ふと思う。現代アメリカにおいて、Nirvanaを愛聴する、あるいは部屋にポスターを張るくらいには好んでいる若者というものはどういう位置づけなんだろう? それは例えば日本では、プリントされているアルバムを聴いたこともなく、そのバンドのことも知らずにGUのロックTシャツシリーズを着ている世代のことだったりする。皮肉なことに、それはカートが望んだことなのかもしれない。作者のひととなりや、生前騒がれたおこないなど知らなくても、ただその作品が愛されたということなのだから。しかしおそらく、この作品におけるNirvanaの位置づけはそうではないだろう。「仕方がない」と観客に了解させる、ある種の記号だ。罠でもある。
ちなみに『IN UTERO』には、「Rape Me」という楽曲が収録されている。今作の秀逸な(素晴らしい選曲!)サウンドトラックに、Nirvanaの曲は使用されていない。
さて、『スリー・ビルボード』。演劇好きにはおなじみ、マーティン・マクドナーの脚本・監督作品だ。「外に出ていく」「故郷を、家族を捨てる」登場人物たち。その過程で殺人が起こり、死体と事件の行方を誰も知ることがない。そんな物語を好んで? 描くマクドナーが、アメリカのちいさな街のロケーションと、観客の視点を決められる=限定出来るカメラを手に入れた。これ迄観客が彼の舞台作品を観て想像していた風景は、荒涼とした、曇天の寒々しいアイルランド。モノクロームのイメージだった。ところがこの作品には色彩があふれている。光に満ちている。主人公が出した三枚の広告看板は真紅の地色に漆黒の文字。飛び散る血、闇に放たれのたうつ炎、看板下に植えられたのはゼラニウムだろうか、真っ赤な花だ。そして主人公が戦闘服のように着ているツナギはアメリカを象徴するかのようなデニムブルー。土地の気候は穏やかで、天気は基本常によく、家族でピクニックに出かけたり、庭にあるブランコから見える景色も平和そのもの。
そんな牧歌的な街で起こる数々の事件は、やはりマクドナーのものだ。キモは台詞のやりとり、一対一のダイアログ。モノローグによる吐露ではなく(主人公の悲しみさえ鹿との対話になる!)対話によって登場人物たちの痛みが抽出されていく。対話が生まれないときは、その表情にカメラがよる。事件の前、娘は母親と喧嘩をした。父親からはあるアドバイスを受けていた。それを悔いてもどうにもならない。同じく母親と言い争いをしていた息子は、来訪した父親が母親に暴力をふるおうとした瞬間ある行動に出る。このシーンは象徴的だった。この一瞬の、とっさの行動には、家族の関係性と人間のありようが凝縮されていた。
前述の「ニルヴァーナが好きな娘」にしろ、賢明な署長にしろ、差別主義者の警官にしろ、あんな目に遭うことが「仕方がない」ひとは、果たしてどれくらいいただろう。世の中には「しょうがないひと」があふれている。しかし、その人生を奪われても「仕方がないひと」なんているのだろうか。ラストシーン、主人公が警官と向かう先にいるのは「しょうがないひと」か、「仕方がないひと」か。ひとが持ち備える正義とは? 慈悲とは? そのことを観客は考える。エンドロールが流れても、映画館を出ても。そうした余韻の残る作品だ。フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェル、ウッディ・ハレルソン。そして広告会社主を演じたケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、主人公の息子ルーカス・ヘッジズ、ちいさきひとピーター・ディンクレイジ。演者も文句なしに素晴らしい。
「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」、平和、愛、共感…から生まれるいつくしみ。マクドナーが見つめるもの、そして描くもの。
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おまけ。終盤の、椅子で眠る母親を観るこどもというシーン、『ビューティ・クィーン・オブ・リナーン』を思い出してドキドキしませんでしたか…私はした……
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