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2017年11月11日(土) ■ |
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イキウメ『散歩する侵略者』 |
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イキウメ『散歩する侵略者』@シアタートラム
やー、つくづく鏡のような作品でおそろしい。大好き。
前川知大作品との出会いがこの『散歩する侵略者』だった。2006年に赤堀雅秋演出版を、2011年にイキウメ版を観た。そのときどきの世相を受け、少しずつアップデートされているとのことだが、「戦争」というキーワードはずっと存在し続けている。この空気は十年以上も前から(恐らくは2005年の初演時から)頭上を覆い続けているのだ、ということに気づく。思ったより長い? いや、戦前とはこんなものなのだろう。
真治(に寄生する存在)が自分のことを指していう「はたらき」。この言葉は作品の本質をもいいあてている。
この作品に通底しているもの。「マジに」いえば「愛は地球を救うか?」ということなのだが、それをマジに受けとるひとはどのくらいいるか? という問いかけにもなっている。「愛」という言葉は「宇宙人」という言葉と同義だ。ベタだ、ダセぇと嘲笑するひとも、ふうん、よくデキた話だねと冷笑するひともいる。おまえの頭はおかしいと心配するひともいるだろう。それらが全て自分に返ってくる。ああ、おまえはそういうやつなのだという鏡になる。「信じる」ことがキーとなる。信じることは自分がそう決めるということだ。目撃した自分の目を信じることには、自分が自分を信じると決めないでどうするという思いが働いている。他者を信じるということは、このひとを信じるという自分の決意表明でもある。
愛という概念を失っても、反射で泣いているひとの頭を撫でることができる。その身体を優しく包み込むことが出来る。自他の概念がなくなっても、他者が傍にいることでそれらを学習、訓練することが出来る。天野がポツリともらした「ともだちだと思ったのに」という言葉は、彼(のなかにいるはたらき)が友情や羨望、嫉妬といった概念を獲得したからこそのものだ。奪われた者に概念はない。本能もない。身体による反射と、それに影響を与える環境があるだけだ。そうして身につけた行為や感情表現を、偽物だと断じることは出来るだろうか? これらを愛だとか憎しみだとか区別し判断するのは、受け手でしかない。
エドワード・オールビー『動物園物語』の台詞を思い出す。「人間はなんで愛なんて言葉を発明したんだろう?」。それは受け手がそう信じると決めるためだ。個人的には盛隆二演じる医師の、現実を受け入れる勇気と達観、学習し続けようとする意欲、それらに伴う悲哀あふれるユーモアにうたれた。こうありたいと思わせてくれる人物像だった。
板垣雄亮演じる警察官は、2011年の上演で安井順平が演じた役。今回安井さんは、元警官のジャーナリストを演じる。このふたりのやりとりが絶妙だった。板垣さん、おそらく舞台では初見なのだが、前川戯曲特有の説明台詞を日常会話としてスムーズに聞かせる術や切迫したシーンを笑いに転じる間が見事で驚かされる。何この馴染みっぷりは……と調べてみると、自分が観はじめる以前のイキウメ常連だったようで納得。大窪人衛は同じ役を演じていたが、中学生から高校生になっていた。ちょっとなごんだ。やー、あの声を持つ限り中学生、まだイケると思います(笑)。ジャーナリストを演じていた浜田信也が今回は真治役。2011年に真治を演じた窪田道聡の慟哭は未だに耳にこびりついている、今でも素晴らしい演技だったと思っている。浜田さんは身体で語る。体温を感じさせない前半から、色白の顔が上気で染まる終盤。身体のコントロールにより自在に操られる声のトーン、明晰な発語。前述した「はたらき」のくだりは、浜田さんの静かな語りにより、その言葉の持つ意味に気づかされた。
何度観ても得るものがあり、何度観ても心が動く。それが反射という現象だとしても、と思うことが出来る。戯曲の普遍性と柔軟性、それらを時代とともに体現する演者の力。
浜辺を思わせる抽象的な舞台美術(前川作品のおなじみ土岐研一)が印象的。音楽が叙情的なかみむら周平から、ホラー感を強調したゲイリー芦屋に変わった効果も大きい。またの上演があるとしたら、そのときはどんな時代で、どんな社会で、どんな演出になっているだろう? 楽しみでもあり怖くもある。
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・BACK STAGE REPORT〜日常と非日常が溶け合うとき〜『散歩する侵略者』赤堀雅秋×前川知大(2006年) 何度か張ってるけど、ログが残ってる限り上演の度に張っとこう
・浜田さんって前からあんなにいいガタイしてましたっけ…今回の役のためにつくったのかどうなのか
・上演記録によると、2007年再演時の真治は安井さんだったのなー。これは観てみたかった
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