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2016年02月20日(土) ■ |
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『リチャード二世』『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』 |
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蜷川幸雄の体調不良により上演が延期になった『蜷の綿』の続報を待っている。待っている間に、代替公演を観る。代替とはいうものの、再演を期待していた作品、上演を逃していた作品を観ることが出来たのは嬉しいことだった。マチソワハシゴ、アフタートーク、関連展示鑑賞と、9時間近くさい芸にいた。折しも激しい雨、外出するには時間も微妙。ドップリひたるのにむしろよかった。カフェペペロネのごはんも堪能しました(笑)。
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さいたまネクスト・シアター×さいたまゴールド・シアター『リチャード二世』@彩の国さいたま芸術劇場 インサイド・シアター
初演の感想はこちら。作品への印象は変わらず、没入はより強く、より深く。初日前目にした情報から、蜷川さんは入院したままで現場の指揮は井上尊晶がとっていることは知っていた。そこに不安は全くない。そして実際クオリティの差は感じなかった。
キャストや配役は若干入れ替わりがあるが、主役まわりは変わらず。オープニングで官能的なタンゴを踊る、鈴木彰紀と竪山隼太のペアも不動。内田健司の異物感はより強くなった。第一印象がもうジルベール(今これ読んでることもあってな……)。白い肌、病的な痩躯なのに筋肉質(本人曰く筋肉ではなく筋、だそうだが)、明るい色に染めた髪といった姿でタイトルロール、リチャード二世を演じる。妖しさは年々増し、カリギュラよりも退廃ぶりが高いようにすら感じる。しかしそれだけでは異物とはならない。このひと、意外と長身なのだ。音量を落としきった声も言葉が明瞭。観客が集中して台詞に聞き入るキャパ300程の空間では余裕で通る。そのアンバランスが不気味ともいえる存在感。対する隼太さんのボリングブルックは、捩れた冥い情熱をたたえた人物像でさまになる。いつしか自分もこの座を追われることになるだろう、という未来に気付いているかのようなその冥さは、この物語のカラーを決定づけている。
ヨーク公爵エドマンド・ラングレーを演じる松田慎也、ノーサンバランド伯爵を演じる手打隆盛はもはやカンパニーの飛車角。昭和のじいさん風激昂、弁慶風の装束といったアイディアは場を盛り上げ、頼りになる存在。松田さんと百元夏繪演じる夫人の夫婦喧嘩も抱腹絶倒。イザベルとそれをなだめる侍女たち、そこへやってきた庭師たちのやりとりは、ゴールドとネクストのコラボレーションとして名場面。そして毎度のことだが栗原直樹の殺陣が本当に格好いい。甲冑衣装での擬闘はたいへんなことだが、それを感じさせないネクストのメンバーも見事。
いよいよ立ちいかなくなったリチャードがボリングブルックの前に現れる場面が白眉だった。リチャードは客席最後方からの登場。まさにその位置に座っていた自分は、彼と竹田和哲演じるオーマール公爵の今生の別れともいえる場面を目の前で観ることになった。ふたりの眼球を薄く覆う涙の膜迄が見えた。無表情と感じていたリチャードのその目は、怒り、焦燥、そして悲しみに溢れていた。涙は決して零れない、薄い膜のまま。これにはやられた。小劇場空間ならではの体験だった。
初演でヘンリー・パーシーを演じ、その後おそらくネクストを退団したと思われる小久保寿人の不在は残念でもある。川口覚や深谷美歩同様、前向きな退団だろうと思いたいし、今後に期待したい。そしてオープニング、車椅子から立たない(立てない?)ままのゴールドの役者が増えていたように思う。今は車椅子なしでは動けない、不在の演出家を思う。身体は時間に抗えない、衰えは避けられない。その事実をつきつけられた気持ちになる。ところが面白いのは、この衰退すら物語の解釈のひとつとしてとらえられることだ。反逆、攘夷、王位や領地の奪い合い……転落は一瞬。その情勢を生き抜く者たちの刹那。限りある時間、このふたつのカンパニーはどうなっていくのか。見届けたいし、見続けたい。
・内田健司「面白いもの」知った 蜷川演出「リチャード二世」に再び挑む - 毎日新聞
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『nina's cotton zero』@彩の国さいたま芸術劇場 中稽古場2
企画展。マチソワ間の一時間のうちに鑑賞。藤田貴大たちが集めてきた「蜷川さんにまつわる断片」で構成された空間。おそらく舞台上でも使われるであろう、机や楽器といった小道具類と、蜷川さんの原風景であろう川口、高架下、そして学生時代の散歩コースを辿った映像。タッチパネルで時代毎の景色も観られるようになっていた。
興味深かったのは蜷川さんのご親戚(か、ご近所に住んでいて幼少の蜷川さんを知っている方)のインタヴュー映像。蜷川さんと、彼より10歳年長の彼女が語る戦争の印象が違うことに藤田さんが言及していた。終戦のとき10歳だったか20歳だったか、この差は大きいと。そして藤田さんと蜷川さんの年齢差は50歳。その差について。
・蜷川氏の舞台延期で道具公開 - NHK 首都圏 NEWS WEB
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さいたまゴールド・シアター/さいたまネクスト・シアター/マームとジプシー舞台写真展@彩の国さいたま芸術劇場 1階ガレリア
舞台写真展。何度見ても『真田風雲録』『ハムレット』の舞台写真が大好き。この絵心、たまらない。マームの舞台写真は初めて見るものが多かった。ガレリアは好きな空間。晴れでも雨でも落ち着く光が入る。何度も往復する。
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マームとジプシー『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』@彩の国さいたま芸術劇場 小ホール
藤田さんが20歳、23歳、26歳のときに発表した三本の作品を再構成したものとのこと。全て初見だったので、作品中の「不在の人物」は最初から同一人物だったのか判らない。ひとりの作家が書き続ける、共通したモチーフかもしれない。しかし時系列が謎解きのようにも感じる構成になっていて、ストーリーの流れと、そこに生きる登場人物たちの心の動き、変化し続ける環境と生活のなかで日々くらすことについて、感じ入る場面が多かった。そして望郷。
リフレインは日々繰り返される生活にも共通し、しかしそこで疲弊していく身体は心に繋がる。決して同じことは起こらない。そして同じものにはならない。その変化を見逃さず捕まえることが出来るか、その瞬間に行動を起こすことが出来るか。立ち止まらずをえない人物の周囲に集まってくるひとたちの不器用な暖かさと、必要な冷たさ。不在のひとを待つ夜の向こうに、朝はある。失ったものは戻らないが、それでも朝は来る。残酷でもあるが、ときにそれは安らぎになる。『Kと真夜中のほとりで』にはそれが凝縮されているように感じた。三本の最後にこれを観ることが出来てよかった。暗い照明は夜道を寂しく照らす街灯のようで、suzukitakayukiの衣装に身を包み、走り、跳び、転がる役者たちの姿が目に焼きつく。瞼を閉じてもそのシルエットが残る感覚。
たまたまですがアフタートーク付きの回でした。藤田さんに橋本倫史さんが質問していくかたち。役者の身体を酷使することについて、追い込んだ先に見えて来るものがあると思っている訳ではない、という話が興味深かった。それでも実質体力はいるので、稽古を熱心にやったり男優にプロテイン与えたりしてたら皆ムキムキになってきて……て話が面白かった。身体が大きくなっちゃったので反対側にいる女優さんたちが見えない! とか(笑)。
(20160224追記:観たあと読めてよかったインタヴュー→マームとジプシー『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』藤田貴大インタビュー | 演劇最強論-ing)
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『蜷の綿』の続報を待っている。蜷川さんの帰還を待っている。
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