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2016年01月30日(土)
『客 손님』

『客 손님』@La Keyaki

『From the Sea』のソ・ヒョンソク新作。前作同様、観客は演者とほぼ一対一で作品に参加する。観客は演者の演技、質問に応じて動く。よって作品は皆違うものになる。今回はIAFT参加作品としての上演で、30分弱の短編。自分に起こったことを書く。

twitterで公演を知り、webで申し込み。この経過も面白かった。ある日突然、見知らぬアカウントからフォローされていたので辿ってみると公演告知のアカウントだったというわけ。いやはや、12月の慌ただしい時期だったので、フォローされなかったら公演のことを知らないままだったかも。気付いたのチケット発売当日でしたし! 有難うや有難や。

当日が近付くにつれ会場が発表され、地図や受付方法等がメールで届くようになる。リマインドも何度か。実券が手元にないので定期的に届くお知らせに安心感も得る。全てがPCやモバイルのなか、という実感のなさは、この公演には似合っている。終わったら記憶だけが残る。会場となるLa Keyaki(ラ・ケヤキ)サラヴァ東京に何度か行っている縁で知ってはいたが、実際に足を向けるのは初めて。前日またもや雪になるかもという予報。遠足みたいに中止や延期になることってあるんだろうか。いやでも今回は屋内だし…と思いつつ、まめにメールやサイトをチェックしてしまう。

雪は降らず当日に。それでも早めに家を出る。何しろ自慢になる程の方向音痴、しかし普段うろうろしているエリアの近くだったので無事到着。丁度参加を終えたらしい女性が出てくるのが見えた。受付時間にはまだ早い、周辺を見てみるか。ラ・ケヤキだけでなく、古い家屋が沢山ある。よく通っている大通りからちょっと入ったところに、こんな静かな場所があったとは……と、しばらく散歩。

受付時間になったので戻る。門扉は閉じている。ベルは鳴らさず入ってくださいとある。ひとの気配が全くない(ようにとにかく静かだった)。上演会場だと認識してはいても、何しろ見てくれはまったくのひとんち。黙って勝手に入るのはやはり気がひける。そおっと入ってちいさな声でこんにちはーと言うと、スタッフの方が出てきてくれた。まず靴を預ける。peatixで用意されたQRコードは使わず、口頭で氏名を確認。こういうところ、公演を観にきたというより家に招待されたような気分になってもう楽しい。荷物を預け、クレヨンと紙で自分の似顔絵を描き、ヘッドフォンを装着。声に耳を傾ける。捨ててしまったこども。それは捨てられたり忘れられた自分かもしれないし、自分が捨てたり忘れた何かかもしれない。観客の自分はこの家に招かれた客でもある。そんなことを想起させるナレーション。その後聴こえてきた指示に従い、ヘッドフォンを外して部屋を移動。

訪れた部屋は受付を入れると五つだったか。こども(らしき人物)と対面し、二階の暗闇につれていかれ、寝室で自分(の似顔絵を顔に張った人物)と出会い、名前を呼ばれるまま階下へと降り、がらんとした和室(こういう場って自然と正座になりますね)でこどもと、手鏡の中の自分と向き合う。これが意外と怖くてですね……恐怖体験をさせる、という意図ではないことは伝わるのだが、それでも怖い。家具や調度品が軋む音(自然発生のものもあるけど、意図的に鳴らされるものは確かにあった)、風に吹かれるカーテンの向こう側に現れる黒髪のこども、そこから聴こえる途切れ途切れの言葉。この日は映画『残穢』の公開日で、前日迄やたらとCMを目にしていたこともあり「これ、そういうのじゃないよね? そういうのじゃないのよね?!」としばらく混乱する。

恐怖感は暗闇の部屋がピークだったのだが、ここで鳴らされたいくつかの音にすごく救われたというか、そこからリラックス出来た。アニメの登場人物がずっこけるときに使われるような効果音。想像されるものが一気に拡がった。そうだった、こどもの話だ。自分か他人か、こどものことを考えるんだった。ここからは自然と展開に身を委ねることが出来た。

この手のつれまわし演劇(なんだっけホントはサイトスペシフィックアートって言うんですっけ)は、ひとを信じることが基盤になるので、そこを越えられないと恐怖や猜疑心しか残らなかったりする。だいたい怖いじゃないですか、知らないとこ行って知らないひとと会ってって。しかも一対一、密室だったりすると。『客』にも『From the sea』にも、相手や設定を信じるための入口や装置があった。しかしそこから没入出来るか、というのはまた別の話。今回は時間が短いということもあり、ナレーションやこどもの問いかけにじっくり応える余裕がなかったのは確か。

それでも最後、こどもが消え、障子が開き、視界に庭が拡がった瞬間の気持ちは忘れがたい。大木とそれに片方だけ繋がれた古びたブランコ。あのブランコで遊んでいただろうこどもはどこに行ったのだろう、この家屋の住人はどこにいったのだろう。上質な短編小説を読んだような余韻は他ではなかなか得られないものだった。

さて、ここからが面白い体験。恐らく他のひとには起こらなかったことだ。強調しておきますが、これクレームじゃないですからね! ある意味ラッキーだと思いましたし、それを楽しむことも出来ました。

和室と庭の間にある廊下には、かわいらしいバッグが置いてあった。近付いてみると、チラシが二枚と、あいさつが書かれたメモもある。あ、終演なんですね。えーと、どうやって帰ればいいのかな? 濡れ縁には靴も並べておいてある。このバッグ…おみやげかな?(ちがう)さっきのこども、確かちいさなバッグ肩にかけてたよな。それかな?(ここで相手をよく見ていたつもりでも実際には細部を見落としているなあと気付く)靴もあの子の……いやいや、屋内だったから靴下のままじゃなかったか。この靴を履いて庭に出ろってことか? しかし私の足のサイズは24.5cm、この靴絶対入らない(目視では22cmくらい)……数分廊下と和室をうろうろし、どうにもこうにも訳がわからなくなったので受付に戻る。既に次のお客さんが到着していたようで、スタッフさんが慌ててやってくる。バッグと靴を見せ「これ、どうすればいいんですか?」と訊くと、控室から私の靴とバッグを出してきてくれた。あっ成程、ホントはあそこに自分の荷物と靴が置いてあって、そのまま帰る設定だったのか! 作品のバグを見付けたような気持ちになった。

上演時間は20分、開演は30分毎となっていたので観客同士が鉢合わせすることはない。しかし好評につき追加公演も出たそうなので、オペレーションとしてはギリギリだったのだろう。遅刻する客がいただろうし、似顔絵を描く時間が長くなってしまうひともいたかもしれないし、部屋間をゆっくり移動するひともいただろう。ここで急かしてしまっては、作品として成り立たない。そしてその性質上、参加した誰ひとりとして「私は正しく時間を守り、完璧に動きました」とは言い切れない。正解はないのだ。だからこそ、公演が最後の一回迄無事に終えられるよう、作品に参加し協力する意識が必要だ。そんなこと知ったこっちゃないというひともいるだろうが、本来演劇というは、演者と観客の協力によって成立するものではないか。

誰もが目にすることの出来るwebでの公演告知は、悪意ある観客(もはや観客とも呼べない者)が紛れ込む可能性もある。マナーは性善説、ルールは性悪説からと言われるように、情報の拡散速度はマナーが浸透する迄の時間をやすやすと追い越してしまう。よってルールを設けることになる。何故そうするのか、と考えないで済むようになってしまう。

念のため書いておきますが、見知らぬどなたかのバッグは開けませんでしたし靴も履きませんでしたよ。これはひととしてのマナーだなー。……とはいうものの、帰り道自分のバッグから何か紛失してないか確認してしまった。勿論なにごともなかったです。そうなんだよ、私はこの作品を上演したひとたちと参加したひとたち、皆を信じたい。このご時世甘すぎる、バカだと言われようと。

今回遭遇したハプニングから、改めてソ・ヒョンソク作品は「ひとを信じる」ことが重要な要素なのだなあと思った。コンサート会場がテロの脅威にさらされるような現在にあって、これは弱点になるかもしれない。しかしその弱点こそを愛おしいとも思ってしまう。考えてみれば観客よりもスタッフ、演者の方が怖いのではないだろうか。最低限のルールのもと、受け手側のマナーを信じきる作品を上演する。どう反応するか全くわからない客を、幕切れ迄つれていかねばならない。その労力はひしと感じたし(特に隠れて家具をみしみしいわせたり風を吹かせたり霧をつくったスタッフには、職人が寝てる間に木靴を作ってくれるこびとを彷彿させた……)、その仕事ぶりにも感服した。日程にしても公演数にしても、今回くらいの規模が限界なのではないだろうか。需要と供給のバランスの難しさを思う。

思えば『From the sea』も、本来は異性と設定されていたパートナーが同性だったし、ソ・ヒョンソク作品ではイレギュラーな体験をする縁があるようだ(笑)。次回も楽しみにしています。

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その他。

・「客」- Togetterまとめ
『From the sea』もそうだったけど、積極的に感想を読んだり書いたりするひとが多いように思う。他のひとはどうだったか、気になりますもんね

・「自画像」ではなく「似顔絵」と指示されたのは、自画像だと全身描くひとがいるかもしれないからかなあ。全身描いたらお面つくれないもんね(笑)

・今回演者は全員女性だったようです。女性の観客はあのこどもを自分のこども時代として見ることも出来るが、男性の場合は選択肢がひとつ減るかも?
・そこで思い出したこと。『From the sea』はパートナーが異性であることが前提としてあったそう(※1を参照)だけど、このとき受け手側が同性愛者だった場合どうなるのだろう、ということ
・上演側の「信じていること」、ここにもヒントがあるかもしれない。そしてこれも弱点かもしれないな
・しかし、観客はそうした上演側の想定外を楽しむことも出来るのだ。これは常に心に留めておきたい