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2015年12月27日(日) ■ |
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『ツインズ』 |
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『ツインズ』@PARCO劇場
や、面白かった。が、ちょっといじわるなことばっかり考え乍ら観たのも事実。まっさらに作品だけに向かいあうのは難しいなあとの自戒も込めて。
公演前の宣伝文句が「あの長塚圭史作品がパルコに帰ってくる!」的な感じだった。長塚圭史の描くものがここ数年で変化している(というか、表に出すものの比率が変わったと言えばいいか?)のは周知ですが、宣伝の感じからするとパルコ側から以前ウチの劇場でやった感じの作品を…てなふうに依頼があったのかなあと邪推。果たして出来あがったものは、以前長塚くんが追究していたような要素と、現在の要素がミックスされたものだった。それがうまく噛み合っているかというと、なかなか難しい。
劇中「思わせぶりな態度も度を過ぎると……」と言う台詞に強く頷いたんだけど(笑)、それを登場人物に言わせるってことは、書く側も自覚はしているのだなと思った。実際あの世界の状態を考えると、ひとは思わせぶりな物言いしか出来なくなるのかもしれない。正解というものを簡単にひとつにすることは出来ないからだ。そういう意味では状況を描いたとも言えるが、ではそこから? と言う「もっと」が胸に湧き起こるくらいには喰いつきたい観客の欲求。
死へ向かう父、環境を受け入れられない父、自分で決められない父、海への夢想を生きる糧とする父。具体的にも心理的にも父親の存在が曖昧なこどもたち。作者の父への執着はずっと変わらない。そこにふたりだけの世界を築き上げている男女。このふたりが、作者自身を投影しているかなと再び邪推。こどもも、今自分がいる世界も受け入れられずにいた若い父が、一歩踏み出す場面で物語は終わる。それが希望に見えないところが今だとすると?
気になったのは演出のテンポで、幕開きのピアノを弾くマイムからもう冗長に感じられたこと。美しい曲(これはよかったなあ)をテーマとしてまるまる聴かせたいのは判るが、それをマイムと舞台転換だけで保たせるのは結構キツい。そして古田新太の扱いに勿体なさを感じる。舞台における吉田鋼太郎の素晴らしさは堪能出来るし、観たかったものが観られたと言う思いはあるものの、それでももう一歩深みに手をつっこんだものが観たかった。中山祐一朗のキャラクター、そういえば彼は公演中の楽屋で燻製を作ってふるまうようなひとだったなと思い出す。それが舞台でも感じられたのは楽しかった。
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で、よだん。
昨日の頁にも書いたが、数日の間に『燕のいる駅』、『消失』、『ツインズ』を観た。似ている訳ではないが、そこで扱うモチーフに近いものがある。閉鎖された(孤立した)地域、残された数人、出ていく数人。その状態におけるひとの感情の動き。これらがだいたい同じ道を辿る。郷愁を誘う象徴が夕刻を知らせる町内放送のメロディ、環境の変化を象徴するのは水や魚介。花火とミサイルの区別がつかない。取り残されたひとたちは生き延びることが出来るか? 絶望的な状況とは何だろうと思いつつ、それでもやはり助かってほしい、と架空の世界に祈る。
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