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2015年08月08日(土) ■ |
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『竹林の人々』 |
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OFFICE SHIKA PRODUCE『竹林の人々』@座・高円寺 1
丸尾丸一郎の私小説がもと、とのこと。そもそもこの作品に興味を持ったのは宣材に掲載されていたテキストと、出演者のなかにオクイシュージの名を見付けたからだった。そのテキストがまるまるオクイさんの台詞として舞台上から発されたときの驚きと、こみあげた感情は忘れがたい。
----- 俺の知る限り、 この屋敷の住人たちは やっぱり最低だ。 結局は 自分のことだけに夢中で、 自分だけを可愛がり、 それで精一杯満足してしまう。 他人のことなど、 最後は頭の片隅にも 置いて残さないのだ。 俺はまた母のことを 思い出していた。 なぜ、母は俺を 置いていったのだろう? あんなに俺を愛し 育ててくれていたのに。 どこまで考えても、 それは答えの無い 空しい問い掛けなので、 俺はそれが 生きる苦悩なのだろうと悟って、 納得することにした。 (公式サイトから引用) -----
家族間に起こる波風。大人になった今見ると他愛もないようなあれこれだ。ああ、そんなことがあったねえ、あのときは大変だったのよ。しかしそれは年月を経た今だからそう言えること。大人になった未来など想像すべくもない、実際子供だった主人公やその兄からすれば、それはもう途方もない壁であり絶望だ。そのやりきれない思いをぶつける過程で誰かを傷付け、自分も傷付く。ここから先、なんとか生き延びることが出来るかどうかはもはや運でしかない。父は妻と息子たちを、妻と兄は身体の一部を失いかけ、あるいは失う。主人公はどうだろう? 最終的には得たものの方が多いように思う。「フィクションの部分も多々あります」と言うことわりはあれど、自身の私小説ということを押し出していたこの舞台に立っている丸尾さんの姿を見て、ほんの少しほっとしたような気持ちも起こった。
渦中にいる少年たちに「それはいずれ解決する、大人になればわかるときがくる」と言うのはたやすい。しかしそれはタブーだ。だから見守ることしか出来ない。生き延びたそのとき、祝福するしかないのだ。
そしてこの作品が面白いのは、作者が投影されているのは主人公だけではないと言うところだ。もうひとり、重要なキャラクターがいる。それがオクイさん演じる犬だった。キャスト表には「魔物」とある。犬の姿を借りた、と言えばいいだろうか。拾われ、裏庭に繋がれている犬。人間は気まぐれで犬を拾い、そのまま惰性で飼っている。愛情を注ぐこともなく、なんとなく餌を与え、なんとなく遊び、自分の機嫌によっては暴力を振るう。そんな人間の身勝手さを見つめ続け、かつての自分の家族を思う犬。その犬が、先述の台詞を語る。なかのひとが見えない、役を完全にまとえる役者のすごさと言うものはあるが、この台詞を語る魔物はなかのひと=オクイさんの思いがにじみ出ているような切実さがあった。そこに圧倒された。
大人になってわかったことがあっても、納得することにしても、抱えた傷は生きている限りついてくる。主人公と犬の姿をした魔物、このふたりのおかげで、複眼的に家族と言うものを見ることが出来た。
小説がもとと言うこともあってかモノローグが多く、それが説明になってしまう箇所が多々あったのが惜しい。そのテキストにこそ惹かれたことは否定出来ないが(何せ観たいと思ったきっかけがそこなので)、演者も皆達者だったので、このあたりはもっと練ることが出来たのではないかと思った。楽器が出来る強さを生かした「暴れ馬と化す兄」を出走ファンファーレで迎える演出は出色。バスケのシーンはとても楽しかった。主人公とその兄を演じた鳥越裕貴、小澤亮太は初見だったが、ふたりとも二十代半ばなのに役柄の年齢相応に見える。あの年代特有のヒリヒリした苛立ちを記憶や体験から掘り起こす作業があったのではないだろうか、それは痛みを伴ったのではないだろうか。彼らはそれをやりとげたのだなあ、と思った。
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