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2015年07月02日(木) ■ |
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『cocoon 憧れも、初戀も、爆撃も、死も。』 |
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『cocoon 憧れも、初戀も、爆撃も、死も。』@東京芸術劇場 シアターイースト
原作は読んでいた。初演時、その熱のある評判は日々増えていった。当日券の列はどんどん長くなっていると言う情報も流れてきた。どうしても都合がつかず、観ることは叶わなかった。再演を待っていた。
キャストは初演から一部入れ替わり、新しく加わったひともいる。沖縄戦のひめゆり部隊がモチーフだが、演者のふるまいや言葉遣いは、今、ここ、と強く感じさせる。「未来は、いま」と言う台詞が重く重く響く。まるで遠足に出かけるように「お国のために♪」と唄い乍ら家を出た少女たちは、男性性に完膚無きまで踏みにじられる。ガマから出た彼女たちは海を目指して走る。ひとり、ひとり減っていく。
そうなのだ、「戦争」と言う大きな背景はあれど、この作品に強く感じたのは「破壊する男性性」だった。親も親戚も戦争に駆り出され、周囲に男性がいない。「おとこのひとになれていない」少女たちは傷病兵を看護する。兵士たちは「おかあさん、おかあさん」と苦しみ乍ら少女たちにすがりつき、死んでいく。並行して提示される場面、ひとりの男性が少女たちを見ている。オロナミンCを飲む、駅の向かいのホームにいる女学生たちを見ている。言葉の端に、女性への性的な興味を感じさせる現代の男性だ。沖縄戦時島にいた「わたしたちを守ってくれる」筈の、「何もしてくれなかった。(それどころか、)」に繋がる男性像。
男性キャストには大きく分けて4つの役割が与えられている。物理的に小道具を動かしたり、女性キャストたちを抱きあげ移動させる等の黒子、傷病兵、女性を凌辱する男性、現代の男性だ。これらは分担されているが、尾野島慎太朗だけは4つ全ての役割を担う。ここがひっかかった。「おかあさん」と女性にすがる傷病兵と、少女を強姦する男性を同じ人物が演じている。ベクトルが違うのではないだろうか……。しかし、「おとこのひとになれていない」少女たちからすれば「男の人はみんな白い影法師」なのだ、と思い至る。尾野島さんは終盤銃弾(砲弾)にも姿を変え、少女(少年)の命を一瞬にして奪い去る。このスピード、ヴィジュアルは強烈だった。衣装も何も変えていない、上下黒の姿が黒い影にも死神にも見えた。
白い影法師にしか映らない男性たちの末路に、飴屋法水の役割がある種の安堵を与えてくれた。彼は音響操作をし、朗読をし、死んでいった人物を白い布で覆って運んでいく。打ち捨てられた物体を人間=かつて生きていたものとして葬る作業を静かに繰り返す。死の向こうには何もなく、安らぎと言う概念もない。葬ると言う作業は遺された者のためのものであり、ある種の宗教性を帯びる。しかしその行為は、あく迄かつて生きていたものへの敬意として留められる。観客を惹きつけるが決して心酔はさせない。飴屋さんの出演が発表されたとき「出る、と言うよりいる、と言う感じなのかな」と思ったのだが、果たしてその存在は沖縄と言う土地、そして「今」であり「未来」の土地に棲むものだった。あれはひとなのか?「おーい、おーい、君は人間か?」。このツイートによると、朗読したのは宮沢賢治『生徒諸君に寄せる』とのこと。
場面場面で、主人公の名を呼ぶ男性の声がする。原作にある、のちに出会う男性だと解釈する。主人公は生き残る、そして生き続ける。復讐は生きること、忘れられなくても「どうでもいい、その後生き続けるには些細なことだった」と思えるようになることだ。そうして迄生きなくてはならないのか? 生まれたからには、生き残ったからには生きるのだ。
藤田貴大演出の特色である運動性とリフレイン。少女たちは砂が敷き詰められた舞台を走る。ひたすら走る。息があがる。肌に汗が光る。台詞が不明瞭になり、声が上ずっていく。女生徒たちの日常は繰り返されるが、全く同じ日と言うものは決してない。日々、いや一分一秒ごとに身体には時間が刻まれる。戻ることはできない。青柳いづみの肩の線、菊池明明の伸びやかな腕と脚、青葉市子の声。生徒たちが唄う声、コロスケの大人の声と身体。暗い照明のなか、彼女たちの身体が目の前を走り抜ける。いつかは朽ちる身体を、連続する時間を、ひたすら見る。揺れる声を、ひたすら聴く。そうならないため、そうさせないために何をすればいいか、ひたすら考える。
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その他。
・『野火』の翌日に観たってこともよかった ・「ひよ」役の西原ひよさんって、あのひよちゃん? と驚いた ・ex.青山円形劇場のスタッフさんがロビーにいた。ああ、ここに来たんだと嬉しくなった。顔を憶えるくらいあの円形には通ったんだなーと改めて思ったりもした
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