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2015年03月21日(土) ■ |
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木ノ下歌舞伎『黒塚』 |
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木ノ下歌舞伎『黒塚』@こまばアゴラ劇場
やー、待望でした。今回観て強く思ったのは、自分の母語…と言うか今現在使っている言葉、つまり現代口語に翻訳されたもので古典を観ると物語への理解度が一段と深まると言うこと。耳に入ってきた古語を頭の中で翻訳することなく反射で了解出来ると、それだけ注意を他のことに向けられる。物語の状況、登場人物の心情を、現代と照らし合わせ乍ら観ることが出来た。文献を読むと言う作業とは違う、実感としての頭への入り方と言おうか。まずテキストを読み込む、それを歌舞伎版(と言っても木ノ下歌舞伎も歌舞伎ですが、便宜上)の演出に惑わされず、現代でも成立する演出に落とし込んでいく、と言う木ノ下歌舞伎の徹底ぶりに唸ります。
阿闍梨祐慶ら訪問者は現代口語、老女岩手は古語を基本。その会話の不成立に、訪問者たちとともに観客はただならぬものを感じる。これはやっかいなところに足を踏み込んでしまったかも、と言う訪問者たちの困惑が観客にも伝わる。長唄は伝統芸能を踏襲、おどりは現代的、と言うミクスチャーっぷりも、その時代時代の流行と伝統を貪欲に吸収してきた歌舞伎のプロセスを考えれば納得のもの。むしろ目から鱗が落ちる。
歌舞伎版といちばん印象が変わるのは祐慶。道案内に迷った強力太郎吾をどやしつけたり、強力に続いてやんややんやと閨を覗いてしまうそのさまには軽率さや未熟さを感じ、考えてみれば彼は「修行僧」だったと納得させられてしまった。この閨を覗く場面は音楽はじめ演出も非常に現代的。時期的にも、ふた月前の人質殺害事件を思い出してしまう。殺害動画を見るか、見ないか。見ることは被害者への冒涜になるのではないか、あるいは加害者の挑発に乗ることではないか。見ないと言う選択肢は道徳心からか、故人への敬意か。あるいは見ることこそが真実を直視することか。祐慶を演じた夏目慎也は目下に対してのチャラさと高僧を目指す意気をいい塩梅で見せる。
そして中の段の全貌を今回ようやく目にして、岩手の見た地獄に愕然とする。そもそも『黒塚』の出典は安達ヶ原の鬼婆伝説だが、では何故岩手はひとを喰う鬼女になったのか。岩手を演じた武谷公雄、その慟哭に圧倒。武谷さん、昨年の歌舞伎ラボで怪演してらした方だ。追い詰められた人物が見せる表情、声、それでも続く人生を引き受けなければならない絶望…身体表現、発声と口跡ともに素晴らしい。その岩手と、大柿友哉演じる身重の娘の場面は出色。大柿さんも発声が素晴らしく、女性同士のやりとりとしてなんら違和感なく観られた。ところで武谷さん、汗の量もすごかった。登場時から汗だく。序盤暗いこともあって汗なのか涙なのか特効なのか判らなかったくらい。体調崩してるとかでなければいいが……。
幕切れが重い。旅の一行は、倒れた老婆を一瞥したあと家を出て行く。老婆はのそりと起きあがり、部屋の奥へと潜り込んでいく……彼女はこのあとも生きていかねばならない。祐慶が口にした希望はほんのひとときのものだった。岩手と出会ったことがその後の祐慶にどんな影響を与えたか、そして岩手はあれからどうやって生きていくのか考えてしまう。雨音の音響、暗闇をこそ活かす照明も素晴らしかった。
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