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2015年02月14日(土)
『エッグ』

NODA・MAP『エッグ』@東京芸術劇場 プレイハウス

主要キャストがひとりも入れ替わることなく揃った貴重な再演。その点で演者にも観客にもある種の余裕があり、比較的落ち着いて観られたように思う。そのことがいい効果をもたらした。予想していた「現在の世相が反映される」部分よりも、作品が持つ普遍的な強さを感じるものになった。そして普遍的だからこそ、「この過去から逃げ切ることが出来たら」と言う台詞はますます重い。初演の感想はこちら

初演の衝撃は今でも忘れられないが、再演は展開を知っているからこそ、細やかな部分に注意を配ることが出来る。冒頭から幾度も鳴り響く列車の汽笛の意味。「実験に使えばいい」等、何気なく語られるちょっとした台詞。そしてあの背番号。誰の背番号が誰に受け継がれたか、永久欠番になった番号は? ストーリー展開とともに、入れ替わっていく役者の背中の番号を追う。三人が並び、番号が貼り付けられた背中を観客席に見せつける迄の流れがこんなにも鮮やかだったのだと気付く。初演のときは、「マルタ」と言う言葉にこれはひょっとして…と心がざわつき、その後「7」「3」「1」と目にした一瞬、頭が真っ白になってしまったのだ。

「記録に残らない」のはそこで起こった出来事だけではなく、そこにいた人々のことでもある。打ち捨てられ、消されていくものたち。記録に残せないのならば記憶に残すしかないのだが、その記憶を有している人々の口は重い。なかったことにされた国と、いなかったことにされた人々は、時間と運命をともにするしかない。語られなかった記憶は忘れ去られ、やがて「なかったこと」になる。これを「記録に残らない」演劇で描く意味。「知った気になっている過去」を、繰り返し観ることで記憶に残す、再演の意味。

列車に乗り、虚構の国をあとにしたひとたち。彼らのその後の人生を代弁するのは、虚構の国に取り残された阿倍比羅夫。この名前の由来であろう阿倍比羅夫は、飛鳥時代に蝦夷と満州の住民を征圧した人物だ。史実の人物も、この作品中でも、阿倍が彼の地に住んだ彼らの人生を知ることは決してない。しかしそれを可能にするのがフィクションであり、演劇なのだ。今回の再演でいちばん印象に残ったのはここだった。寺山修司が「劇場の梁に書きとめた」虚構の世界で、時間と空間が交錯する美しくも痛切な場面。

そして幕切れ。ありません。いません。といたずらっ子のような顔で言い放つ芸術監督。先述の初演の感想に「このフックをどう捉えるか」と書いた。今回、この演出に救われたような気持ちになった。野田さんの最後の台詞、そこからのソイル版テーマ曲。これがないと拍手をするのも席を立つのもキツい。と、思うのも、この再演がますます実感として響いたからだ。そして野田さんの「フィクションの力を信じている軽やかさ」は「フィクションを目撃させる力」をも持っている。史実の重みに打ちのめされるばかりだった初演、その史実を目撃したつもりになっているのか? と問われたかのような再演。世界には「知った気になっている現在」も「知った気になっている未来」もあるのだ。そこに希望を見出すか、絶望に留まるか。現実がいつでも辛いもので、虚構が優しいものとは限らない。逆も然り。

翌日所用(ウルトラマンスタンプラリーをやりたくて行く用事を作ったと言うのが正しい・笑)で阿佐ヶ谷に行った。河北病院の看板が目に入る。ああ、そうだった。『エッグ』終盤で描かれた寺山修司の終焉の地、河北病院は阿佐ヶ谷にあった。そして『ノック』は阿佐ヶ谷でも上演された。日常に虚構が入り込んだ街だ。ゆっくり歩いた。

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・人生の贈りもの|作家・作詞家、なかにし礼:2『引き揚げ列車の中、歌の力知った』朝日新聞デジタル
これを読んだ直後だったこともあり、引き揚げの様子がよりヴィヴィッドに画として映った。満州で生まれ育ったこどもの原風景と、「歌」の力