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2015年01月07日(水)
朗読「東京」『白痴』

芸劇+トーク ――東京を読み 東京を語る。―― 朗読「東京」第三回『白痴』@東京芸術劇場 シアターイースト

昨年の『咄も剣も自然体』がとても面白かったので、今回も出掛けて行きました。シリーズ第三回、初日は川口覚×藤井美菜で坂口安吾の『白痴』を。演出は範宙遊泳の山本卓卓。企画監修、トーク聞き手は川本三郎。

舞台の下手に大きめのスクリーン。東京(確か池袋、芸劇周辺)の映像を開演前から流している。昼間の映像だったので、生中継ではない様子。中央に椅子二脚、上手には大きめのTVくらいのモニター。山本さんの演出作品は初見、当日パンフレットのプロフィールを見ると「文字・映像・光・間取り図などアナログな2次元のエレメンツを用いた“生命”や“存在”への独自のアプローチ」とある。

もとは三人称の小説。ふたりの登場人物―主人公伊沢と白痴の女性―をそれぞれ出演者ふたりが語るのだろうが、その他の描写、つまり芝居だとト書きとも言える部分はどうするのだろう? 序盤は様子見のような感じで鑑賞。登場人物たちの台詞も、伊沢の心情や情景描写も、厳密には分割されていませんでした。藤井さんが伊沢の心情を語ることもあればその逆もある。川口さんが白痴の台詞を語るとき、それは白痴本人が喋ったそのものではなく、それを聴いた伊沢の解釈が含まれているもの、と言う印象を受ける。情景は、場面によってどちらも語る。

演出家が強調したいと判断したであろうセンテンスは、前述の下手スクリーンや舞台後方の壁一面(思えばここにもスクリーンがあったのだ)に大きく映し出される。「私、痛いの、とか、今も痛むの、とか、さっきも痛かったの、とか、」の部分は、原作だと「痛い」と書かれているのを敢えて(だと思われる)「いたい」とひらがなにして映写する。リーディングは主に耳でテキストを聴く作業。直前の状況から判断して「いたい」は「痛い」と「居たい」のどちらだろう? と一瞬思う。次の「いたむ」でああ「痛」か、とは思うが、続けて「いたかった」が来てまた迷う。この解釈にレイヤーを与える演出は面白かった。上手のモニターの後ろにはカメラがあり、場面によってそこへ移動した演者の表情が映し出される。押し入れから白痴が見上げたであろう伊沢の困惑した顔、伊沢が見詰めたであろう脅える白痴の顔。ただひとりにしか見せなかった表情が、観客の前に現れる。

演者は情景描写にちょっと苦心していたようだが、独白や対話となると俄然輝き出す。「怒濤の時代に美が何物だい。芸術は無力だ!」「僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝(みつ)め得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。」言葉たちがリズムが宿る。川口さんの台詞まわしに引き込まれる。それに伴い、序盤ちょっと危なっかしいと感じたト書き(便宜上。独白、対話以外の部分)も乗ってくる。四月十五日に伊沢が見た光景、白痴と逃げた道の情景描写は見事だった。一方藤井さんは白痴のおぼつかない言葉遣いをちいさく澄んだ声で、ト書きは凛とした通る声で表現。朗読と言うものの身体表現もある演出に、“白痴”の仕草を効果的に取り入れていた。

終盤、空襲のなか彷徨うふたりは下手スクリーンの裏側に移動する。スクリーンは白い幕となり、ふたりの影絵を映し出す。白痴を抱きしめる伊沢、「怖れるな。そして、俺から離れるな。」はじめはちょっと手数が多いな、と感じた演出効果が徐々にソリッドになっていき、最終的には役者の肉体と声に集約される。暗転、思わず唸る。一回きりの上演なのが勿体ない、貴重なものが観られてしあわせ。

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アフタートークおぼえがき。記憶で起こしているのでそのままではありません。セットはそのままで、椅子を二脚追加。川本さんと山本さんが入り四人で座談会…と言うか、川本さんのお話を皆で聴く感じ。

川本:皆さんお若いけれど、坂口安吾との接点ってありましたか? これ迄読んだことはあった?
藤井:初めてです。名前を知っていたくらいで……
川口:同じく初めてです。手塚(眞)さんの映画は以前観ましたが、それだけですね
山本:昨年劇団で、安吾の作品から想を得た芝居を上演しました。とても共感する部分があって。それで今回お話を頂いたとき、この『白痴』を選んだんです

川本:『白痴』には、昭和二十(1945)年四月十五日にあった蒲田の空襲(城南大空襲)の描写があります。皆さんは太平洋戦争についての話って親御さんとかから聴いたことはありますか?
川口:ないですね…映像や史料から知って、想像して考えると言う感じです
藤井:家族からはないですが、学校の授業や映画、ドラマ等で知っているくらいです
川本:皆さんご出身はどちらで? 空襲はあったところですか?
川口:鳥取です。あったと言う話は聴いたことがないです
藤井:新潟です。あったらしいですけど詳しくは知らないですね
山本:山梨です。空襲の話は聴かなかったけど、僕はおじいちゃんが海軍にいたんです。それで片目を失っていて。臨場感たっぷりに話を聴かせてもらったりしました。あとおじいちゃん、(進軍)ラッパの音色をよく口ずさんでいたので、それがとても印象に残ってます
川本:あー、おじいちゃん。そういう世代ですよねもう。僕は昭和十九年生まれで東京でね、記憶は全くないのですが五月の空襲(山手大空襲。1945年5月25日)でウチが焼けてしまったと聴きました。何もかもなくなっちゃってね

藤井:今回朗読して思ったのは、今迄ドラマや映画で観た戦争ものって、誰か大切なひとがいる、そのひとを守りたいって言うのが前面に出ているものばかりだったんです。家族や恋人等、誰かを守りたい、誰かを思って…と言う。でもこの『白痴』では、伊沢にとって白痴はただの肉体に過ぎないと思っている…伊沢も白痴もとても孤独で。それがとても印象に残って
川本:素晴らしい感想ですね! 伊沢と言う人物は若くて、
山本:あ、僕! 伊沢と同じ歳なんです!
川本:てことは……
山本:二十七です!
川本:えっ、若いですねえ!(会場からもへええと言う声)…そう、若くて健康な男性なのに、終戦の年になっても徴兵されてない。安吾がこのとき四十くらいで、『白痴』は終戦の翌年に発表されています。安吾も徴兵されていないんですね。太宰治もされてない。本人たちは何も語らなかったし、これは憶測に過ぎないと前置きしますが、彼らは家がとても裕福だったんですね。安吾は新潟、太宰は青森の有力者で。徴兵する側になんらかの感情が働いていたのではないかと思われます。兵隊にとられたひとととられてないひとってのは、戦争に対する認識にも大きな違いがあるんだと思います。安吾は大田区に住んでいて…以前大森区と蒲田区があって、一緒になったから大田区になったんですよね…安易でしょう(笑)、そして空襲にも遭っている。白痴と出会ったかは判りませんが、まあそこはフィクションだと思いますが、この作品には安吾の実体験や心情が反映されているのでしょう

川本:このシリーズ三回目なんですけど、出演者の皆さん仰るのは、朗読は芝居よりも難しいと
川口;そうなんです! 今回何箇所か噛んでしまいましたが、僕、台詞のところは全く噛んでないんですよ(笑)
藤井:ト書きと台詞があるので、自分の状態を瞬時に切り替えなくてはいけないので難しいです!
川口:芝居だと動きにも意味を込められるけど、朗読だとそれが制限されるので…とても難しいです
川本:最初は伊沢と白痴、と言う感じで聴いていたけど、だんだん情景が拡がっていきましたね

川本:『白痴』は純愛小説の側面もありますね、孤独なふたりが出会って。空襲後の場面はとても静かな、美しいとも言える描写になっている。もしかしたらふたりは既に死んでしまっているのかも…と言う解釈も有り得ますね
山本:あっ、最後に言いたいことが! 最初はもっと文字や映像の効果を入れていたんです。でも、それがなくても役者さんたちが表現してくれるなってところがあったので、どんどん効果を減らしていったんです。ホントふたりとも素晴らしくて、僕ふたりのことが好きになってしまって。そんな深く知り合いな訳でもないのに
川口:(笑)三回でしたっけ?
山本:そう、稽古の三回しか会ってないんですよね。(顔合わせ含めて?)全部で四回
藤井:嬉しいです……あっ、そう、わたしもひとつだけ言いたいことが! 豚のお尻を切り取ってってところ、豚は痛そうでもなく特別な鳴き声もたてないってあったけど、そこは違いますよね! 豚だって痛がるし、鳴き声も違うと思います! それだけは言いたかった!(笑)

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メモ。

・坂口安吾『白痴』:青空文庫
初出「新潮 第四十三巻第六号」1946(昭和21)年6月1日

・平和新聞 第31回 坂口安吾 白痴

・「表参道が燃えた日」山の手大空襲の体験記

・藤井さんは『猟奇的な2番目の彼女』に出演しているそうです。おっ、楽しみ。日本公開ありますようにー