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2012年03月27日(火) ■ |
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『KOTOKO』特別先行上映 |
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『KOTOKO』特別先行上映@テアトル新宿
上映前に塚本監督の舞台挨拶(トークショウ)。Coccoと映画を撮ることになった経緯や、ヴェネチアに出品したときの反応等について、いつもの調子で腰は低く押しは強くの監督らしいトークでしたが、Coccoにインタヴューを重ねて作っていったと言う本作品についての話はとても興味深かった。本編前に監督が撮った『Cocco 歌のお散歩。』も上映されました。
監督のプライベート…と言うか生活そのものは、どの作品にもいつでも反映されているという印象がある(撮ることと生きることが繋がっているように感じる。どうしても滲み出てしまうもの)。家族が増える喜びと膨らむ不安、老いた肉親を見送る痛みと観察、戦争への恐怖感。ご自分でもその辺りは率直に各メディアでお話されている。舞台『哀しい予感』を手掛けていた頃は、病身のお母さまに叱咤され連日現場に向かっていたと当時話していたが、正直成程と思ったものだった。それが正しいとか、間違っていると言うことではない。
今回は、その長年介護していたお母さまが亡くなった後に、Coccoから「今なら」と話が来て、短い期間で集中して撮ったとのことだった。ここ数年の作品とは違う向き合い方で撮られているように感じた。そして、その作品にCoccoが出演していることは、塚本監督が塚本監督にしか撮れないものを、またひとつ違う側面から見詰めたものになっているように感じた。ふたりが関わったからこそ撮れたもの。
「それでも人生にイエスと言う」をこんな形で表現することも出来るのだ。
「どんなにつらくても苦しくても生きていかなければならない」ではなく、「肉体が生きろと言っているからそれを断ち切ると言う選択肢はない」。そして、生きていると奇跡と思えるような瞬間に出会うことがある。
しかし、ここで、そういうことがあるからこそ、生きていればそれに価値を見出せるかも知れない。と言う結論は決して出さない。人生は素晴らしいとか、そんな答えは出していない。奇跡に意味や価値はない。ただ、生きているとそういうことがある、そんな奇跡を見ることが出来る。それだけだ。
飴屋法水さんが手掛けた『4.48サイコシス』を思い出した。人間が生きていくことに関して、他人には決して手を出せない自分だけの領域について。『KOTOKO』も『4.48サイコシス』も、どうしても生きていくことが困難なひとの心について扱っており、塚本さんも飴屋さんも、何らかの教訓めいた意味合いを添えてしまうことを決してしていなかった。筆が滑らないと言えばいいのだろうか。この辛抱強さは、自分にはとても信用出来るものだ。
限りなく死に近付き、その心に寄り添い、見詰める。どうしても助けてあげられないひとはいる。助けてあげられなかった自分を責めることはない。いや、責めても意味はない。塚本さんが演じた田中と言う人物は、それを体現する役割を担う。このパートにはコミカルな要素もあり、ちょっとした揶揄もあるのだが、田中の言動は全てが本心からのものだったのだろうと思う。彼がことこの前に現れる、そして消えるタイミングは絶妙だった。
91分とは思えない濃密な世界。監督の、撮る対象への愛情が恐ろしい程に伝わる作品。奇才の映画監督が個性派アーティストとコラボ、なんてものではなかった。文字通り血みどろのガチンコでした。Coccoのファンの方はどう思われたのか知りたく思います。
手を振る、一度隠れて、木陰からまた手を振る。また来る、また会える。
公開されたらまた観に行こうと思います。
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