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2010年09月21日(火) ■ |
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『自慢の息子』 |
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サンプル『自慢の息子』@アトリエヘリコプター
行ってきました初サンプル。ううーむ、松井さん、書き分けと言うか、『聖地』と共通のテーマはあるものの、自分のところでやるものと外部に書き下ろしたものとではきちんとテイストを変えてきているところがすごいなと思いました。演出もこのテキストならこうくるか、と言う。短期間に二作品観た上での感想なので、過去のものがどうだったかは判りませんが…しかし『聖地』が初の外部へ提供した作品だそうだからなあ。初めて、と言う割にはかなりの手練ではないか。末恐ろしい。
しかし松井さんとハイバイ岩井さんとのアフタートークで話題になりましたが、今回は大分判りやすい…と言うか、登場人物の動機がいつもより明快になっている、とのことでした。外部に作品を書いたことがきっかけなのかどうなのか松井さんは明言しませんでしたが、ものごとに対して自分の解釈を貼り付けることに興味がある、と独特な言い方をされていました。
これも自分が信じる=信じることを決意する、に関連してくる。うーん、こういうのって続くなあ。
『聖地』は老人たちがホームを聖地だと宣言し、巡礼者たちが集まってくる…と言う流れでしたが、『自慢の息子』ではひとりの青年(もはや中年かも知れない)が自分の部屋に独立国をつくり、亡命者がやってくる。どちらも自分たちの“王国”を探し続ける内容です。丁度よしもとばななさんの『王国』シリーズ一気読みしたところだったのでいろいろ思うところがありました。はみだし者たちが自分たちの居場所を探す。どこにもいられない、と言うことはない。どこかにはある。つくることも出来る。しかし、それは永遠には続かない。必ず崩壊の季節がやってくる。
その王国があったこと、と言うのは歴史の中に埋もれていき、数年後、数百年後、数千年後にはそれってホントにあったの?なんてことになる。岩井さんが「歴史ってホントのところ実はなかったんじゃないか、信用してない」と言っていて面白かった。大体自分で目にしてない、学者たちの解釈によって想像されたものが歴史なので、実際のところは判らない。自分の都合のいいように改ざんしているかも知れないじゃないか!と。それは歴史に限らず、例えば会話やコミュニケーション全般に関して通じることでもあります。その誤解は、解釈によっては実は正解。母にとっては自慢の息子。妹からすると大好きなおにいちゃん。外部から見ると共依存、ひきこもり。お互いの性処理も承ります。物事は解決しない。しかし不思議と解放感のある幕切れ。歴史の解釈も、自分の考えの行き詰まりを解放したいからこそのハッタリなのかも知れない。それは伝説や神話に成り得る。
役者陣もよかった…きもちわるさを生々しく見せるのに笑えてしまったり悲哀が滲み出たり。お互いがお互いをつきはなし、それなのにくっつきたがってる。全員初見の筈なのに、顔、佇まいがガッツリ頭に残りました。これって自分にしては珍しいのですが、それ程強烈でした。
それにしても『聖地』といろいろなシンクロニシティがあって身震いするシーンが何度かありました。小道具の被りとか…作為とかないと思うんだよね……使い方としてはかなり違うし。松井さんはまだ『聖地』を観ていないそうで、今日こちらの本番が終わったからようやく観に行ける、と仰ってました。観たらどう思うのかしら。今回松井さんの、ひとつの場をいくつもの国境で分断し、その上をガイドに横断させるような演出には唸らされましたが、松井さんは『聖地』の蜷川さんの演出に関してどう感じるのかしら。
しかし青年団周りの層の厚さ、恐るべし。自分が気付いたのは『3人いる!』からだったからちょっと遅いんだよな。青年団はもともと若手育成(役者だけでなく作家、演出家も)に熱心で、と言うよりどんどんやりたいことやらせちゃう環境を作っている。そしてどんどん巣立ってってるし、お互いのユニットの交流も盛ん。ハイバイもままごとも近いうち、なるべく早く観に行きたい。五反田団もな…アトリエヘリコプターは五反田団のアトリエなんですが、先にサンプルで来てしまった……。
『聖地』と『自慢の息子』両方を観たひとには、半券提示で松井さんによる『「聖地」から「自慢の息子」へ<場所をめぐって>』と題されたちいさな解説がもらえました。休演日だったゴールドシアターのメンバーや、青年団のメンバーの姿も。
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