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2008年03月01日(土) ■ |
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『ジャックとその主人』『春琴』 |
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どちらも約110分、入れ子構造、アフタートーク付、と興味深いハシゴになりました。どちらも萬斎さん言うところの“ソウゾウ力=想像力/創造力”を観客もフルに使うもので、もうぐったりだ!(笑)
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『ジャックとその主人』@吉祥寺シアター
『ヒステリア』に続く串田さんと白井さんで何かやろうぜ〜第二弾。今回は串田さんが演出。ジャックが串田さん、主人が白井さん。ふたりが旅をし乍らお互いの恋物語を語り、それが芝居小屋の役者たちによって上演される。そのうちジャックも主人も舞台にあがって再現劇を始めるが、それは果たして舞台上の芝居なのか?
ほぼ裸舞台に小道具(ロープやコード等)が散らばり、地明かりがついたまま芝居は始まる。ジャックは客席を見て「ご主人さま、なんで皆こっちを見てるんでしょうね」と言う。自分たちの運命は天の書いた通りだと言うが、それは勝手に書き換えられもする。ただし自分の運命は自分で書くことは出来ない。それは今現在目の前の舞台で演じている役者だけでなく、それを観ている自分たちにも言えることでもある。導入のジャックの台詞は、観客を引きずり込むのにいいスイッチだった。
アフタートークには串田さん、白井さん、内田有紀さんが出席。以下印象に残った話。 ・ミラン・クンデラのこの作品はフランスではかなり有名なもので、日本での『ゴドーを待ちながら』くらいの知名度。今迄日本で上演されてなかったのは不思議(串田さん) ・白井さんが台本2ページ飛ばした日があって、劇中劇担当の役者が大慌てだった(笑・芝居のシチュエーションからセットから変えねばならなかったので)しかも本人気付いてなくて平然と芝居を進めるからまるでこっちが間違ってるみたいに思われた!(内田さん) ・台詞が自然過ぎて「えーとどうだったっけな」って台詞が素の呟きに思われたりしたところも(笑)(串田さん) ・役者が好きか演出が好きか、先日のアフタートークでは演出が6役者が4って答えたんだけど、今日は役者が6。役者のルーティンワーク的な部分を今楽しんでる。体調管理(芝居前に何をどのくらい食べておこうとか)も含めて(白井さん) ・ワークショップに串田さんが遅刻した時、白井さんが演出側をやったら顔が違った(内田さん) ・人格が変わるから全く分けて考えないと僕はやれない。自分が演出する芝居に出演する時は、アンダースタディをたてておいてどう動くか位置とかをきちっと決めて、全部を自分が見てから初日2週間前に役者として入る。なのに串田さんはいつの間にか演出席から舞台側にいて、またいつの間にか戻っててアメーバみたい。どうやったらそうなれるのか…(白井さん) ・どうって言われてもねえ(笑)(串田さん) ・メタシアター的なものは'80年代によくやっていたので懐かしいと同時に芝居を始めたばかりのことを思い出して初心に帰った気分も(白井さん)
あとスタンディングオベーションの気味悪さ=観客の均質さについての話が面白かったです。勿論個人で感動して立つのはいいのですが、皆が皆立つことについてですね。それは周りが立つから立っとこうってのや、単に前のひとが立って舞台が見えないので仕方なく立つってのもあるでしょうが(笑)100人観たら100通りの感想があっていいのに…と言う。いろんな感想を持てる作品が上演出来る環境がやはり少ない…勿論前よりはよくなったとは思うけど、とのこと。
何もかも感動しなければダメとか、わかりづらいものを排除しようとする風潮が強くなってきている感じはします。それには怖さも感じます。
■『偶然の音楽』再演 仮チラ配布されてましたが、ポッツィが誰かわかんないんだなー。仲村トオルさんは続投のようです
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『春琴』@世田谷パブリックシアター
うはーサイモン・マクバーニーすーごーいー。暗闇にいることの安堵感、暗闇だからこそ研ぎ澄まされる神経、暗闇で感じるエロティシズム。変態性から愛情は生まれるか、それは芸術になるか、情ではなく生理か。日本人ですら見落としがちな感覚を、イギリス人である彼がこう感じ取って提示するのか…感嘆。共感することに恐怖すら感じるが、恐怖があるからこそ変態と言うものは成り立つ気もする。そしてこの物語から浮かび上がる変態性は日本人独自のものか?
谷崎潤一郎の『陰影礼賛』『春琴抄』から。マクバーニー演出ですから、春琴も佐助も複数の役者が演じます。春琴は役者にも人形にもなる。ここらへん文楽として観ることも可能です。春琴の声は全て深津絵里さんだったかな(あの声がすごく活きてた!)。
幼くして盲目になった春琴の身の回りの世話をする佐助が、顔に火傷を負った春琴の顔を見まいとして自分の両目に針を刺す。
と書くと美しい献身の物語に思えるが、春琴には嗜虐性があったとされ、“生理的必要品”として佐助を側に置いたとの解釈も提示される。平たく言えばSMの関係だ。佐助は春琴本人も見たことがない彼女の身体を細部に亘って見ており、その身体を磨き続けた。春琴と佐助の間には何人ものこどもが生まれたが、死んだり里子に出したりで、ひとりも自分たちのもとには残さなかった。執着も全くなかったようだ。
佐助は春琴にそらもーいじめ抜かれる訳ですが(特にチョウソンハくんはボコボコよ・笑)そこに色気を感じさせる仕掛けがあります。宮本さんが春琴のボディ、声を深津さんが演じて佐助を蹴るシーン。照明は極力落としている。宮本さんの脚が、3人の佐助を蹴り続けるうちに、着物の裾がめくれてくる。その白塗りされた脚の艶かしいこと!それ迄人形で演じられていた春琴のボディが生身の人間に入れ替わったことで、このシーンから一気にエロスが感じられるようになります。春琴が年齢を経る毎に深津さんの声色も変わり、これも効果的。
NHK第2放送用のナレーションを朗読すると言うシークエンスも面白かった。ナレーターを演じている女性(立石さん)は不倫中で、「私はあなたの生理的必要品ですか?」と問います。もうここらへんになると、“献身の物語”だけで観ることは許さないと言う演出家のハッキリした意志が感じられる。これは変態なのか?変態であると言うことはどういうことなのか?大体セクシュアリティーに普通ってものはあるのか?と迄考えることになる。で、そこには愛情もあったりするんですよ…他人には理解出来ない愛情。愛情にも普通はないと言うことになる。それは執着とも言えるかも。いかにも谷崎潤一郎的、ですが、それを日本語が読めないマクバーニーが……と思うともうひたすらすごいとしか……。これ『エレファント・バニッシュ』同様今後イギリスに持って行くのかも知れませんが、あちらでどのように受け取られるかは非常に興味があります。
役者は出ずっぱり。観客も息を呑んで全力で観る。演者の動きや声を、観客が視覚と聴覚をフルに使って観る。
アフタートークには萬斎さん、三味線の本條秀太郎さん、マクバーニーの通訳を担当した野田学さんが出席。以下印象に残った話。
・『陰影礼賛』をやりたいってことで、マクバーニーのワークショップに参加したのは10年前。2年くらい前に『春琴抄』も…となって、今の形が出来てきた。でもプレヴューの寸前迄全体がどうなるか決まってなかった(本條さん) ・サイモンは稽古場にあるものは何でも使う。本條さんもいつ三味線を弾けるのかってくらい他のことをやってた(笑)(野田さん) ・これをイギリスで上演したら字幕になってしまいますよね。今回の上演の感覚をまんま受け取れるのは日本人として嬉しいし、日本の文化として提示出来る作品としても喜ばしいことだなと思う(萬斎さん) ・畳の裏にカタカナの会社名が書いてあるのがすごく気になった(笑)(萬斎さん) ・全てを見せる、観客に隠さないと言うマクバーニーの意図もある(野田さん) ・逆に考えれば、日本人的な「ないものを見る」「そこにあるものとする」感覚を大事にしてるのかも(萬斎さん)=ここらへん“心眼”だよなー ・春琴が人形になったり役者になったり、そのまま打ち捨てられたりするのは寂しかった(笑)僕が役者だからかな。マクバーニーのワークショップには僕も留学中参加したことがあるけど、彼は役者に寂しい思いをさせる演出家ですね…(萬斎さん)
そういえば、数日前の新聞の劇評に載っていた写真と同じシーンがなかった。プレヴュー以降も変更した部分はあるのだろうか。マクバーニーは数日前帰国してしまったそうだけど、コンプリシテ=共犯者である役者たちは、日々舞台を更新し続ける可能性もある。今後が気になります。
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どちらのトークにも、串田さんが演出した『コーカサスの白墨の輪』の話題が出たのが興味深かったです。入れ子構造=メタシアターについてと、劇中人形と生身の役者を併用することについて。うう、これ逃してるんだー観たかった…。
なんかもーどちらも体感したー!てのが強烈で上手く言葉に出来ません!自分の文章下手もさることながら!気になった方は是非実際に観て感じてくださいな。当日券もありますので。どちらも立ち見沢山で盛況でした。
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