2011年01月18日(火) |
考えるばねと青春時代の自覚 |
人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
愛読させていただいている、ある方のブログで引用されていた、司馬遼太郎の一文。
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司馬さんがいう「人なみでない」というのは、引用した文の文脈からいくと、人なみ以下、すなわち人よりも劣る、ということである。
そのことは悪いことではなく、むしろものを考えるばねになると司馬さんは言う。
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私は、司馬さんの言うところの人なみでない部分を放置したまま大人になった。 この年になって、つくづくそう思う。
口だけはやけに達者だが、物事の遂行能力が著しく低い。 実務の正確さに欠け、時間もルーズだ。怠け者でもある。 逆上がりもできないし、走るのも遅い。
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そのことを自己都合解釈すると、色々な側面があるのだが、 大きな原因のひとつとして、私は親の努力やその成果に便乗したのだと思う。
物事の遂行能力や実務の正確さに長け、努力をし、 社会貢献し成果を残してきた親と自分を同一化し、人なみでないことを自覚してこなかった。
つまりは親離れできない娘だった。
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親が老いて、少しずつ能力の発揮が収束し、色々な努力をすることもやめにしはじめて、 自分自身の人なみでない部分があらわになった。
こんなみっともない話をとても親にはできないし、 遅まきながらこそこそと改善を図り、また「ものを考えるばね」としているが、 若者のようにはずみがつくかどうかわからない。
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それは親が構築したもので自分のものではない、という便乗現象が明らかになる一方で、 間違いなくこれは自分自信で築き上げてきたと言えるものも、確かになってきた。
それらのほとんどは、振り返ってみれば、私にとって親や親との生活をいったん否定するところが出発点になっているように思う。
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生きていくことは孤独で厳しい。
とりわけ、青少年という時期は、どこかの歌ではないが、 路に迷っているばかり、である。 かといって本当の厳しさに気づいているわけではない。
一方で、生きていることは可能性であり、未来である。 皮肉なことにそれは、 そうあってほしいと悲願する親をいったん否定し、離れることで、より自覚的になる。
そんなふうに思う。
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