2010年12月01日(水) |
リアルドラえもんの偽物の未来 |
数日前のこと。テレビで地域活性化の話題。
漫画「明日のジョー」の実写版が映画化されるのにあわせて、 地域おこしのイベントをやります、とおじさんが意気込んでいた。
ご当地ブームに沸くゲゲゲの女房の後に続こうというものだろう。 急ごしらえの泪橋の端には、丹下段平がジョーに檄を飛ばすのだろう。
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かように、アニメの実写版づくりが、ブームである。
アニメ実写版において、主人公は「リアル○○」と言われる。 リアルちびまる子ちゃん、という具合である。
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リアリティの実際は、大きく変化した。
ほんの数十年前までは、例えば映画館の入り口にある看板の絵にリアリティがあり、銭湯の壁に描かれた富士山にリアリティがあった。
つまり、本物っぽく表現するという行為は、とてもシンプルだったのである。
リアリティは、現実の世界から人間が何かをアウトプットしたものへの評価、という事実も明白だった。
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CGだけで映画作品が一本できるこの時代、虚構と現実の境はひどくぼんやりとしている。
アニメを実写版化するというのは、ただ単に「マンガの筋書きを追ったドラマを作ります」という素朴な世界ではないのらしい。
例えば、丹下段平の顔のシワの一本から、ちびまる子ちゃんの-あくまでもマンガとしての誇張表現であった-お椀のようなおかっぱ頭に至るまで、役者の姿がその通り表現できるかが追求されている。
つまりここでリアリティとは、生身の人間が虚構世界であるアニメにそっくりにつくられることであり、クリエイターはそこに心血を注いでいる。
これは、小説をドラマ化するのとはかなり違う現象だと私は思っている。
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ちびまる子の世界だけではない。 このリアリティの「ひっくり返り現象」は、私たちの生き様そのものである。
まずドラマや、コマーシャルや、誰かの作り出した虚構の世界があって、これと寸分たがわずに自分のライフスタイルや恋人、家族を適合させ、生きている実感を得た気分になっている。 嬉しいことも悲しいことも、憤るようなことも、全て虚構の世界にセットされている。
そうしているうちに、生身の自分や自分を取り巻く数多の状況の変化を受け止めて処理する能力は日々衰え、虚構に比べてはるかに多様で複雑な現実にはもはや、耐えられない。
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明日のジョーは、戦後の貧しさが残る中で生まれた物語であるし、 宇宙戦艦ヤマトは宇宙開発全盛期の、未知への憧れに満ち満ちている。 ちびまる子ちゃんは昭和の小学生へのオマージュであるし、 ゲゲゲの鬼太郎は作者の特殊な幼少時代の集大成である。
どの作品も、作者が目の前の時代や世の中と向き合ったからできた物語であり、またそうだからこそ、人々の共感を得た。
ぼんやりした現実と虚構の間にあって、濁った金目で在庫から支給されたものに賞味期限を上書きしただけのような、何の工夫もない不自由なアウトプットなど、私はそれを人間の創作活動とよびたくない。
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駄作でもよい。洗練されてなくてもよい。もちろん儲からなくてもよい。
人は、人間である以上、目の前の実際の現象からインスピレーションを得て、意思や感情に基づいて自分の頭の中を巡らし、何かをアウトプットするという行為を決してやめてはいけない。
繰り返して言おう。
目の前の実際の現象と向き合うことをやめてはいけない。
現実世界を遮蔽されたり幻惑されることがあれば、 そこから全速力で逃げなければいけない。
未来に創造的であることを、他のにせ物の活動とまぜこぜにしてはいけない。
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