少し前の話。
大阪府天王寺区で、江戸時代末期の安政4年(1857)生まれで、生きていれば152歳の男性戸籍が見つかった、というニュース。
所在不明高齢者は、その後も全国各地で次々と発見されている。 実は日本は高齢化社会じゃないのかもよ、とHに冗談を言う。
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江戸末期の元号が、なんだか急に身近に感じられる。 歴史というガラスケースから飛び出した、生々しい時間の連続性を感じてしまう。江戸時代は市役所戸籍課にある。
ということで安政から先を調べてみた。
安政(1854〜60) 萬延(1860〜61) 文久(1861〜64) 元治(1864〜65) 慶応(1865〜68)
練馬区で確認された慶応生まれのおばあちゃんは−果たしておばあちゃんまで生きたのかもわからないが−、天王寺のおじいちゃん−同左−よりも7才年下だ。
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私たちの社会には、安政生まれや慶応生まれがその構成メンバーに入っている。 死者達は人口統計に組み込まれ、亡霊のように社会システムにとどまった。 偉い学者や金勘定をする商売人や政治家は、そうした亡霊付きのデータに基づいて様々な将来予測をし、戦略を立て、政策を展開してきた。市民は偉い人がそう言うのだからそうだろうと諒解した。
とても痛快だ。 シェークスピアの喜劇に勝るとも劣らない脚本がかけそうである。
何もかもが分かったような、生意気でえばっているこの現代社会で、 一皮向けば大したことのない−サブプライムローンみたいに−肝心の土台がいいかげんなものというのは、実は世界にうじゃうじゃしている。 それは、システムの管理精度が上がればあがるほど、わきまえなければいけない事柄の一つなのだ。
それに、人の命の灯という自然現象は、国のシステムがどんなに管理精度を上げても完璧には管理できない。
そのことは、私にとって救いであり、希望だ。
2004年09月02日(木) 根気よく人を説教する話
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