高校生のコーラスを聴きに、門前町へ。 Aをはじめ合唱団の子どもを3人連れて行く。いわば研修旅行である。
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器用なSちゃんは、プログラムにさっと目を通したかと思うと、 ホールを抜け出して隣の盛り場へ遊びに行ってしまった。
ろくに演奏を聴かなかったというのに、帰り道ではさっさと宿題の作文を仕上げていた。 いつ、どこへ、誰と行って、何を聴いて、どう思ったか、ばっちり書いてある。
要領がいいなあと感心する。
英会話を習い、バレーを習い、進学塾、ピアノに通う身としては、要領よくなろうというものだろう。大人との会話もよどみなく、こちらが背を縮める必要がない。
口を半開きにして漫然と歌に聞き入っているAとは、自分の身の置き方や社会的評価に対する態度が全く違う。
悪い意味ではない。 これまでも、そしてこれからも、こうした子は確実に伸びていき、自分の存在価値を作り上げ、社会を支えていくのだ。 また、結果的に上質の芸術文化を鑑賞できる、社会的経済的立場を得たりもする。
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振り返って、こうも思う。
言葉を介さない芸術文化というのは、利発な人間のものではない。 つくづく、そう思う。
言葉や人渡りの良さで物事を上手く運べる人にとって−あるいはそうしたコンディションにおいて−、 言葉を越えたコミュニケーションは、必然性や切迫性をもたないのである。 それは退屈な視覚的、あるいは聴覚的刺激であり、信号の一種である。
あるいはそれは私の意地悪い見方であり、要領のよい人達はエクセレントに演奏者、あるいは鑑賞者となっていて、そうした王道を私が知らないだけなのかもしれない。
けれども私は、音楽や絵画の真の意味を支えているのは、 −それが表現者であっても鑑賞者であっても− コミュニケーションのための言葉が上手く出ず、社会と自分の間に大きな壁が立ちはだかり、馬鹿正直で損をするような、そんな要領の悪い人間−あるいはそうした弱弱しい状況−、だと確信する。
そうした人々にとって「これがなければ息ができぬ」という唯一無二の「気持ちの受渡し方法」になるからこそ、それは救いであり光になるのだ。
2009年07月04日(土) あじさいの歌 2006年07月04日(火)
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